2018年2月1日木曜日

子どもを泣かせる派?泣かせない派?

 久しぶりの投稿になってしまいました。
 私は普段、お母さん方に、または学校の先生などに子どもの教え方について指導差し上げる仕事をしています。しかし、いざ自分の子どもを連れて外に出ると、知らない方からお手伝いを受けたり、否定的なコメントを受けたりもします。教育には色々な考え方をする人がいますから、当然と言えば当然ですかね。
 ある朝長男を連れて児童館に遊びに行きました。午前中みっちり遊んだので、そろそろ家に帰ってご飯を食べようと長男に言うと、「まだ遊ぶの!」となかなか離れようとしません。「もうしっかり遊んだでしょ?また来ようね。お腹空いたよね。おうちでご飯食べよう。」と手を引いて行こうとすると、長男が足をバタバタさせて泣き出しました。すると児童館の職員が素早く寄ってきて、あやそうとしてくれます。「どうしたの?大丈夫、大丈夫!ほら、お靴履こうか?やった!履けた!」おかげで長男の機嫌も直り、そのまま帰宅することになります。
 「大丈夫」は、何か痛いことや辛いことがあった人に言う言葉ですよね。この場合は何も痛いことや辛いことはなかったのですから、結論から言えばこの対応はおかしいです。泣いた理由は「帰りたくない」ですから、ただ残念だったのです。残念なことがあって泣いたら、世の中いつも欲しい物が手に入るわけではないので、残念だけれども、他の楽しいことを考えることを学習して欲しいのです。ですから、「残念だね。でもパパが言った通り帰ると、良いことあるよ。」で良いのです。それでも泣き止まなければ、私は子どもを泣かせたまま児童館を去っても全然問題がないと思います。帰ったら、美味しいご飯が待っているわけですから。それも含めて体験させてあげることが、教育ということです。泣いたら理由も関係なくあやすのはおかしいのです。
 泣く子どもに「大丈夫」とすぐに大人が寄って来てあやすのは、痛いことや辛いことがあった場合は必要なのですが、ただ残念なことがあっただけの場合には、むしろ逆効果になります。「残念なことがあれば泣く」=「周りが寄って来て色々としてくれる」と言う構図ができてしまうと、将来何かやりたくないことがあればただ泣いてしまう行動傾向が着いてしまい、大きな目では逆効果になりかねないのです。子どもの泣いた理由によってその時の対応を変えるのが適切であり、効果的な教育方法なのです。
 子どもの泣く行動全般に対してアレルギーのある方は他の場面でもよく見られます。私が子どもにオモチャの片付けをさせて、子どもが嫌がって泣いていたとすると、「厳しいのねえ」「そんなにやらせるんですか?」というような批判的な声を聞くこともあり、「(年齢や発達に応じて)できることはやらせる」という当然のことすら嫌がる親も多いような印象を受けます。「子どもの内面からの動機を育めば、無理にやらせなくても自分からやるようになる」というような何の科学的根拠もない考え方を言う教育の専門家が多くいるからかもしれません。「餓鬼(ガキ)」という言葉が子どもを意味する言葉に使われるようになったのは、子どものうちはお腹が一杯でも好きなものは際限なく食べてしまったり、自分の好きなことだけをやって嫌なことは逃げようとしたり、そう言った側面が多く見られるからです。もちろん待っているだけで勝手に色々とできるようになる子どももいますが、だからと言ってすべての子どもにそれを期待するのはおかしな話です。子どもは大人が教育する必要があるのです。良いことは良い、悪いことは悪いと、小さい頃から少しずつ教えていくのは親の当然の義務だと思います。
 「そんなにやらせるって・・・ただ片付けさせてるだけじゃん。片付けさえもやらせないんだ・・・。」ぼんやり思いながらも、まあ親切心で言ってくれている人に対して申し訳ないので黙ったまま、そして心の中では悶々としながら帰途につく今日この頃です。

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