2013年2月25日月曜日

ABAペアリング:価値を変える

 先日名古屋のアメリカ領事館に行ってきました。領事館のイメージとしては、何となく大々的に「領事館」とかって看板とかあって、「私の国を知ってください。」「色んな人いらっしゃい」という雰囲気で、アメリカ人とか日本人が大勢行き来している市役所のアメリカバージョンいたいなのを想像していました。全然違いましたね。ビルの中の小さな入り口で、知らなければ絶対通り過ぎてしまう。警備員がいて、何のために来たのかを説明しなければドアの近くにも寄れない。ドアは鍵がかかっていて(営業時間中でも)、インターフォンで中の人にもう一度理由を説明して初めて入れてもらえる。それから、飛行場のセキュリティーみたいなのをくぐって、荷物を検査されるんです。
 セキュリティーを通りながら、ふと壁を見るとオバマ大統領、バイデン副大統領、ヒラリークリントンの写真が並んでいて、「ここは日本国内でも、アメリカの領土なんだ」、とつぶやきました。するとセキュリティーのおじさんが、「そう、そこのドアからこちらは、ユー、エス、エー!」と興奮気味に答えてくれました。このおじさん面白いでしょ?ユーモアというか、いい味出してる。ちなみに用事は全部日本語ですみました。「ユー、エス、エー!」って、微笑んでしまいますよね。
 ユーモアのセンスって人それぞれだけれど、自閉症に教えることは難しい。というか、面白いと感じるか、感じないかはそれぞれの価値観なので、教えられるものではないのです。ABAにおいて価値観をかえるには、ペアリングというのを使います。簡単に言えば、「ペア」って「一対」ってことです。「好き」な物と「普通」の物を何度も(何百回、何千回)一緒に(対にして)提示することで、徐々に「普通」の物が「好き」になるのです。例えば、赤ちゃんが徐々にお母さんの姿、声、肌触り、においなどを識別し、(他人より)お母さんの方に近づこうとするのは、お母さんの姿や声などが「ミルクをもらえる」「暖かくしてくれる」「おむつを交換して清潔にしてくれる」「守ってくれる」といった、赤ちゃんに取って「好き」なことと何百回も何千回も結びつく(ペアリング)ためと言われます。ちなみにペアリングの効果は(普通の物が好きになる)、すぐに起こる事もあれば、残念ながら何百回しても起こらない事もあるんです。ですが、私は療育(治療教育)上大変重要な手法として使います。特に早期教育というか、子どもがまだまだ価値観などが定まっていないうちは、「ダメもと」でどんどんやります。
 自閉症の場合、「好き」「嫌い」の価値観が少し違う場合が多いのです。例えば「よく出来たね」と褒めてもらうことが、全然「好き」でなければ、教育上大変教えるのが難しくなります。褒められるとうれしくて舞い上がって褒められた事を何度も繰り返してしまう子もいますよね。自閉症の子の中には、褒められても無表情のままその場を離れてしまったりすることもあります。「親の嬉しそうな顔」にも視線が合わない子どもも多いです。逆に、親が嫌そうな表情をしても全然無視する子どもも多いです。ですから、親の嬉しそうな顔、褒め言葉などと、子どもの好きなもの(遊び、お菓子など)を一日何度も一緒に提示する(ペアリング)ことで、その価値観を変えて行こうとするのです。
 表情、褒め言葉の他にも、価値を上げたいことがあります。「同一の物を一緒にする(マッチング)」、「人の動作を模倣すること(動作と動作のマッチング)」、などです。前にも「模倣」の投稿で話しましたが、一般に人は思ったよりも人の真似をして生活している。例えば、人が行列をつくると、つい行列の先に何があるのかも知らずに並んでしまう人がいます。(ペアリングされた結果というか、過去に模倣して楽しい結果となった経験があって)模倣自体が面白くなっていたため、そういった行動を取るのだと思います。普通の子どもを見てると、ライオンとライオンを一緒に、牛は牛と一緒になど、色々同じ物を一緒にして遊んでいたりする事もあります。その場合「同じ」ということは、子どもにとって面白いんです。さらに言うと、ミスマッチ(上手く合わない物、反対のもの)も面白いんです。ユーモアの一種にもなると思います。テレビで有名な「ハリセンボン」の近藤春菜さんのギャグで、「○○じゃねーよ。」ってありますよね。あれも「似てる(マッチング)」というのと、「でもそんな人に似ていると言ったら失礼かも(状況からするとミスマッチ)」と合わせているから、面白いかなあと思います。
 私がアメリカで教えてい子どもで、マッチングが徐々に面白いという事がわかるようになって来た子どもがいました。療育前は、他の子どもなんか見向きもしなかったのに、早期教育の結果、他の子どもを真似するのが好きになってしまいました。しょっちゅう真似をしています。そのうち、こんな事を言い始めました。「青信号走れ。赤信号停まれ。」という風にお父さんと言葉遊びをしていたら、「赤信号走れ。青信号停まれ。」って自分でわざと間違えて言って(ミスマッチを作って)、自分で笑うんです。これって、ユーモアの目覚め?と療育している側が嬉しくなってしまう瞬間ですよね。 「赤じゃ走らねーよ。」とかって「突っ込み」まで教えれば良かった。でも、英語で「突っ込み」ってないよね。

2013年2月20日水曜日

音声模倣:質問への回答2

 前回の投稿に付け加えて、質問への回答をします。
 質問の内容は以下の通り。音声模倣(五十音順)まで進みましたが、一行に3文字以上に進みません。「あか、あお、もも」は、まね出来る様になりましたが、「ばなな、りんご」などがまね出来ない状況です。「立って」、「コップ取ってきて」、「ばななを指指して」などが出来るので、物の名前などは分かるはずなんですが。
 
 他の方にもためになると思いますので、私の回答を以下に載せておきます。
 音声模倣は一番難しいレッスンの一つです。どうしても身体プロンプトが使えないので、シェイピング・分化強化していくしかありません。ここで大切なことが二つあります。
1:「物の名前が分かっている」ということと、「物の名前が言える」というのは、全然別のスキルだということです。
2:「一音一音が言えるのだから、組み合わせも出来るはず」と一概に考えてしまいがちですが、そうとも限らないということです。
 私の経験からすると、自分の名前が言えない子どもがいました。「名前は?」と聞くと、「イェティー」と言いますが、本当の名前は全然違うんです。しかも、名前の一音一音を模倣させると言えるんですが、組み合わせると何故か大分違う「イェティー」になってしまう。本人は結構自身満々で言っています。スピーチ(言語聴覚士)の先生も「組み合わせの音は難しい」と言われました。
 こういう場合、子どもと療育する場合の両方にストレスがかかってしまいます。物の名前が分かっていても口で言えない(自分では言っているつもりでも口から出てこない)というのは子どもにもストレスがかかります。教えている方は「何で言えないんだろう」という疑問から、ストレスがかかります。はっきり言って、ストレスをかけたまま練習を繰り返して、あまり喋らなくなってしまった(話す事自体が嫌になった)例も見ました。
 どういうことかというと、私の理解では、筋肉を育てる必要があるので、時間がかかるということです。大人は流暢にはなしているので、筋肉を使っていることさえ意識していませんが、顔の筋肉は複雑です。話はじめの子どもは筋肉が発達していないので、特に音の組み合わせを覚える際には、しょっちゅう話させて筋肉を徐々に育てることが大切です。
 私の場合、ストレスをかけないように言葉全体の練習をすることが大切だと思います。「ばなな」や「りんご」の発音自体にあまり固執せず、「言おうとしている」「がんばっている」行動全体を褒めてやれば、本人にもストレスがかからずに日常的に音の組み合わせをがんばって出す練習の機会を増やせます。筋肉増加の練習量が増えれば、練習量増加にともなって、特別「ばなな」ばかりを練習していたわけではなくても、徐々に3音4音の組み合わせの音が出来るようになる事があります。
 ちなみに「イェティー」君も今では普通に喋ってます。「イェティー」と言い始めてから自分の名前が言えるようになるまで、半年以上かかりました。

2013年2月17日日曜日

教育で行き詰まった(質問への返答)

 質問をいただきました。ありがとうございます。また、投稿という形で返答させて頂きます。
 「(4歳児が)動作模倣、音声指示、音声模倣(五十音順)まで進みましたが、一行に3文字以上に進みません。なにかしら突破口があれば、ご伝授お願い致します。」という質問です。残念ながら「一行に3文字」というところがよくわかりません。音声模倣が3音までできる(おかし、ほしい、等)ということですかね。
 色々教育をしてきて先に進みづらいというか、天井にあたったというか、これまではそれなりに学んで来たけれど、学ぶスピードが落ちて来たとき等、そう言う時もありますよね。しっかりとした教育をしていても、そう言う事はあります。だいたい学び方は、いつも単純に右肩上がりという訳ではなく、時には学んでいないように感じることがあるのが普通です。そう言う時に、第三者の目線って大切ですよね。自分が気づかずにおかしている間違いに気づいてくれる。ええ、成長してるよ、って言ってくれる場合もあります。自分で解決しようとする場合、ちょっと他の事をしてみたり、その事につい考えないようにしていると、しばらくすると「ああ、こんな事をしていたから先へ進めてないんだ。」って気づく場合もあります。
 この質問者の場合については詳しくは分からないのですが、ちょっと目線を変えた療育にしてみるという手もあります。例えば、椅子に座らせて「あ」「い」等という五十音を模倣することを教えたのであれば、逆にそういったやり方を辞めて、例えばお菓子が欲しいときに、「ちょうだい(4音)」と言わせるとか、外に行きたい時に「ドア開けて(5音)」と言わせるとか、生活の中でだけ教えるというように、教育の方向性を変える事も良いかもしれません。え?それぐらいはもうやっているよ、って?これがやり方によって色々効果に差が出ます。例えば、上手い人がやれば遊びの中だけで、歌を歌って歌詞を言わせるとか、踊りを踊って「イエーイ」と言わせるとか、お笑い芸人のギャグの真似をさせるとか、遊んでるだけでかなりの音を出せるようになりますよ。もちろん子どもによってはそう簡単に遊びに乗ってこない子どもとか、椅子に座ってやる方が断然やる気があがる子もいるので、あくまでアイデアとして取ってください。
 でも、毎日やってると何が良くて何が悪いのか自分では分からなくなる事もありますよ。似たようなセラピーの経験のある友達の方に見てもらうなんてことも、良いかもしれません。ただし、この質問者のお子さんの場合、模倣や言語指示など、ある程度の指示には従えるようになってきているので、いずれにせよこれからその学んだ事を色んな場面で現実的に使えるようにすることが必要になってきます。 徐々に教えた行動を日常生活で使えるようにしていくというのは、大切です。

誤学習:教えようとするあまり

 誤学習とは、誤った行動を学んでしまったり、正しい行動が誤った状況で起こってしまうことです。教育しようとした側が意図しない結果になることです。例えば、何かしてもらった時に礼を言うことを子どもに教えたいとします。ごく普通の教え方としては、何かをあげる前に「ありがとうっ、て言って。」などと子どもに言いますよね。自閉症の子どもによくある誤学習は、「ありがとう」と言わずに、「ありがとう、って言って。」と文章全部を繰り返してしまう事です。他の例としては、「ごちそうさま」と言う事を教えたいのに、ご飯を食べ終わったあとに「ごちそうさま」じゃなくて「ありがとう」と言ってしまうなどです。「ありがとう」自体は誤った行動ではないのですが、言う状況が間違っている。これも良く見られます。
 この程度の誤学習は比較的簡単に直す事ができます。例えば教える側が、「ありがとう、って言って。」と言わずに、「ありがとう」だけ言うようにする等です。しかし、長年かかって学習してしまった行動は、修正が難しいこともあります。ある学校で、こんな生徒がいました。その学校では、否応なしに子どもを椅子に座らせて勉強させる。子どもが嫌がって席を立とうとすると、連れ戻してきて座らせる。もちろん勉強ができれば、しっかり褒められてご褒美ももらえる。大部分の生徒は、最初は連れ戻されるから仕方なくやるけれど、徐々に褒められる喜びのために勉強するように変わって行き、逃げださなくなる。他の学校では学ばなかった子どもが、この学校ではしっかり学ぶようになることも多く、親から見てもこの学校に期待する度合いは大きい。しかしその生徒は残念ながら、しっかり褒められて学ぶ喜びよりも、逃げても連れ戻されるから仕方なくやっている方が強かったようなのです。体が大きくなるに連れて(中学生になるぐらいで)、抵抗すれば勉強しなくてよいことに気づいたのです。これまでは、逃げ出そうとすればすぐに席に連れ戻されていたけれど、床に寝そべって「うどん」のように体をしならせれば、もう大きくなった体は持ち上げられにくい。できたとしても、時間がかかるので勉強時間は減る。教室に入らずにドアの前で床にごろんとすれば、もう先生は引きずって席まで座るのは難しいので、勉強の時間が減る。色々有益な行動を教える予定が、予定外の「うどん」になる行動を教えてしまったわけです。こういった状態で「どうにかして欲しい」と私が呼ばれました。
 その子どもの状態を知るために、ちょっと席に座らせようとしました。もちろん、勉強出来た時のご褒美も用意して、この生徒が簡単にできるような勉強を用意しました。でも、席に近づく事すらできないんです。勉強につながりそう場所に近づいたり、「席に座れ」なんて言われたりすると、すぐに床にでろんと寝そべってしまう。寝そべる行動は、勉強が嫌だから起こる事は明らかなようです。「あ、お菓子がテーブルにあるよ」とごまかしながら体を押して席に近づけようとしても、本当に大人二人がかりでも席に近づく事すらできないんです。よっぽど嫌だったんでしょうね。長年ずっと嫌な事をやらされて来たんでしょう。私も魔法使いではないので、長年かけて育った「勉強嫌い」を好きに変えることはできません。というか、そんなに嫌だったら、何も学ばないでしょう。
 先生とのミーティングで、何のために座らせる価値があるんですか?という会話から始めました。すると先生から、「じゃあ好きな事を勝手にやっているなら、何のために学校に来ているの?それじゃ他の学校と同じでしょう。遊ばせているだけじゃないんですか?」と言われました。先生は学校に対する誇りがあるんですね。この生徒には失敗したかもしれませんが、教育に対する情熱は熱い。でも、私は好きな事をやっていても良いと思います。逆に本人が好きな事をやっていると思えるような状況を作る事が大切なんです。座れないのなら、机に座らずに遊びや他の生活の活動の中で色々教えることもできるでしょう。ただ、生徒主導というか、生徒が先生を無視して勝手にやっていてはダメなんです。学校内で先生に教わるということは、ルールにも先生の指示にもある程度従ってもらう必要がある。ですから、学校の教育を「机に座らせて教える」タイプから、「遊びや活動の中で教える」タイプに変えてもらい、ルールに従う事から徐々に教えましょうと助言しました。しかし、これまでの歴史の影響は大きい。この子と一緒に他の活動をしようと思っても、勉強を連想させるようなことすべてに抵抗を見せ、どんな指示にもほぼ従えない状態でした。「○○しよう」なんて言うと、別に嫌でないことでもすぐに床に寝そべってしまう。ですから、「指示に従うことって悪くないよ」という新しい経験を積む所から始めなければ行けない。これまでの勉強に対する悪い印象を徐々に変えて行くために、指示を与える機会自体を大きく減らすことにしました。もちろんこれでは意図的に学ぶ機会を大きく減らしてしまうので(いずれにせよその時点では、何を教えているとも言えない状態であるが)、親にも承諾をとりました。
 具体的に言えば、取りあえず、本人が好きなビデオを見る、クラスで好きな遊びをする、等と言った、非常に楽チンでやりやすい時間割にしました。ここで重要なのは、先生の指示に従って、そのスケジュールに従って教室間を移動するということです。ビデオ室に行ってビデオを見て、時間がくれば教室に戻り、お昼は食堂に行って、先生の指示通り教室間を移動するということが意外に難しい。これまでは、たとえお昼に食堂に行くだけでも、だまされて勉強させられるとでも懸念しているのか、床に寝そべってしまう。全員他の生徒がいなくなって初めて「勉強じゃなくて、ご飯の時間だ」と確認し、移動する。しかも、この子は何かの活動の最中にフラフラと歩き出してしまう事が多いので、「食べている時は座る」、「ビデオを見ている時は座る」といったルールも教えなければ行けない。これだけでも意外に学ぶ事は多い。実は、時間割を変えてすぐは、ビデオルームに入るだけで抵抗しました。「お前の好きなビデオ見ろ!」って強制しているようで、笑ってしまいました。一週間ぐらいで抵抗せず、床に寝そべらずに自分で教室間の移動ができるようになりました。面白い事に、次の一週間で本人の顔に違いが見られました。これまでは、花粉症とか埃のアレルギーで、顔の口の周りの皮膚が真っ赤になっていたんですが、皮膚がきれいになって、赤みが取れました。これまで本当に毎日床にずっと寝そべって来てたために、埃と花粉にまみれてアレルギーが悪化していたんだ、と私も初めて理解出来ました。先生も、「これで何とか教えられる方向性が見えた。」と言っていました。
 この後も色々とでてくる問題を解決しながら徐々に教える事を増やして行きましたが、紆余曲折というか、本当に時間がかかりました。先生の教えたいという思いが逆の結果に至ってしまうこともあるという例です。

2013年2月15日金曜日

地域でする教育:ABA般化

 高校時代からの友達のエイちゃんとカフェに行きました。「カフェ」って言われて、「コーヒ屋さんのこと?」と思いつつ、そう言えば、テレビを騒がせたどっかの犯罪者も「猫カフェ」って言うのに行っていたなあとぼんやり思い出しました。ごはんも食べられたり、お酒が飲めるところもあるんですね。カフェだけを紹介した雑誌やブログもあるらしい。やあ、少しいないと日本も変わる(ああ、12年いなかったか)。そこのカフェは春日井市のベル何たらさん(すいません名前覚えてなくて)。経営者一人だけで注文取りから料理まですべてこなしていました。美味しかったですよ。小洒落た内装も個人でやられたのでしょう。私も個人経営しているから、そういう人がんばって欲しい。
 ところで学校の先生をしているエイちゃん、生徒のお母さんに「挨拶運動はしないんですか」という声をかけられたと話していました。「挨拶運動」という言葉自体がなつかしい。私は、挨拶などの基本的な作法は家で教えるものと思いますが、家だけで挨拶を教えるよりは、地域が一体となって挨拶をもりあげる方が、家で挨拶する子どもではなく、家と地域両方で挨拶する子どもを育てられる。ABAではこういうの、「般化」っていいます。行動を色々な場所で起こるようにする。学校が躾作法の教育を手助け出来る良い例だと思います。
 自閉症の教育にも地域の協力が本当に大切なんですが、自閉症児に対してどう接すれば良いのか、一般の人には分かりづらい。自閉症の子どもは顔が可愛かったりするもんだから、顔だけ見ていると健常児でわがままなだけに見えてしまうので、公園やスーパーで泣いてしまっていると、「躾が悪い」などと親が非難されてしまったりするんです。自閉症を知らないところから来ることなので仕方の無い事なんですが、協力どころか非難される経験があると、親も外に出づらくなってしまい、ますます自閉症児が地域で目に付かず、一般の理解はさらに深まらないという悪循環になりやすいんです。
 私のアメリカの相談を受けた親からこんな話を聞きました。自閉症の子どもが、外出先のバス停でバスが遅れてきたためにパニックになって、周りの人から大ひんしゅくを受けた。周りの人に「私の子どもは自閉症で、特殊教育に行ってって」って説明してやったけれど、 理解は得られなかった。このお母さんは偉いですね。障害をちゃんと他の人に説明しようとするそのパワーがすばらしい。でも、そこまですることはお勧めできない。
 一般の理解は、人の考え方はそれぞれなので、理解してくれない人がいるのは仕方の無いことです。ただし周りからの理解を少しでも得ようとするのであれば、私がお勧めするのは、人前でも恥ずかしがらずに「子どもに何が大切なのかしっかり説明する。大切なことが出来れば、しっかりと褒めてやる。」ことで、何を教えているのか周りに知らせることです。例えば、バスが遅れてくる等と言った予定が変わる事、予測出来ないことが起こることに対して、パニックを起こしやすい子どもがいるとします。バスが来る予定時刻の前から、「予定ではこの時間に来るよ。でも、バスはいつも時間通りに来る訳ではないよ。その時はどうするの?そうだね。お話ししたりして、時間をつぶせば良いよ。予定が変わっても、ちゃんと行き先に行ける?そうだね。時間が遅れても大丈夫。ちゃんと行き先に行けるよ。」などと周りの人にも聞こえるように話す訳です。バスが遅れてきた時には、「偉いねえ。良く待てている。何のお話ししようか。・・・お話をする・・・ほら、バスが来なくても楽しい事もあるよね。」などと説明する。これをしっかりしておけば、子どものためにもなるし、周りの大人も「ああ、この子はバスが遅れてくるのは待てないから、教えているんだ」と分かりやすい。「この子は自閉症だから、バスが待てなくて・・・」って説明する必要はないんです。っていうか、バス停で会っただけの人に診断名まで知らせる必要ないでしょ?これだけ説明しても分からない人には、言ってもわからないと思うので、諦めるしか無いですが。
 公園でも、子どもの良い行動を一つ一つ褒めてやる。例えば、「す・す・そう、スコップ言えたね。」「欲しい、って言えたね。」「これは?そう、滑り台。知ってるね。」「やったー、ブランコこげた。」などと褒めていれば、他の親からもその子どもがどんな事を今学んでいるのか分かりやすい。周り人にも、「あれ?ちょっと褒めている内容が違うかな。」という程度の印象を与えるかもしれないけれど、悪印象はないですよね。親が子どもを褒めているのを聞いて、心地よくない人ってのはあまりいないものです。しかも、何かあった時にも協力を得やすい。その子が突然他の子どものオモチャを取ってしまったとしても、「欲しい、ってきくんだよ。欲しい、って言ってごらん。」って教えていれば、取られた子どもの親としても「ああ、手を出す前に、欲しいって口でお願いする事を今教えているんだ。」、って理解しやすい。わがままな子どもと、躾のなってない親と判断されてしまいにくい。親が子どもを褒めて教えている所を見ると、つられて真似したくなってしまう場合もあります。他の親も、つられて自閉症の子を色々褒めてくれたらうれしいし、自閉症に限らず他の子どもも褒めてくれたら良いですよね。地域全体で子どもを褒めて育てて行く習慣ができれば良いですね。

2013年2月12日火曜日

待つ力:欲しい物を待てる?

 今日アメリカの国土安全保障省に電話して、申請手続きに関する質問をしました。そういう所って、だいたい始めは機械が応答します。日本語に翻訳すると、「お電話ありがとうございます。○○の方は○番を、○○の方は○番を押してください。」といった感じで流れますので、番号を押して回答していきます。「お待ちいただきありがとうございます。電話をかけられた順番で応答します。申請書類の番号を用意してお待ちください。」といったアナウンスが流れつつ、このまま国際電話なのに30分も待たされました。結局のところ待てずに電話を切ってしまいました。それだけ待てば本当に腹立ちますよね。外国人だからって(国土安全保障省に電話するのは基本的に外国人)、そんなに待たせなくて良いですよね。日本の官公庁は最近ずいぶん親切になってきましたから(というか前から)、電話で30分以上待たされるという事はまずないと思います。
 日本では官公庁でないところで、結構待たされます。電車とか、ラーメン屋とか、テーマパークとか。でも驚いた事に、みんな平気な顔で待ってますよね。両親と墓参りの帰りに、ついでだから近くの小さなテーマパークに寄りました。お昼を食べたかったのですが、どこのレストランからも「18組待ちです。」なんて言われて待つ気すらしません。肉まんやコロッケなどの軽食を買うのにも行列。しかも並んでない所に行ったら、「材料が亡くなってしまいました」とかで、待たずに食べるという選択肢がひとつもない。それでも、並んでいる人を見ると、どなたも別に平気そうなんです。驚くべき日本人。そんなに腹減ったまま待たされて大丈夫なのか?私的には暴動起こす寸前だったんですけど。日本人は行儀が良いということなんでしょうか。
 自閉症や発達障害がある子どもの療育をすると、よく「この子は全然待てないんです。欲しいお菓子があればすぐに椅子に登ってでも棚から取ろうとするし、ダメだと言ってもその場では聞いたような顔をしているんですが、すぐにまた取りに行ったり。」という事を聞きます。「待つ」という行動を教えるにはどうしたら良いんでしょうか?残念ながら、人って待てないもんです。「待って」という指示に従うように教えられない事もないですが、言語が発達していない子どもの場合、基本的に教えられる待ち時間は短く、長くても一分とかが限界です。というのも、言語できちんと説明できない人を、長く待たせようと試みる事がおこがましい。例えば外国人で全然言葉が通じない人を、時刻表のないバス停からバスに乗せたいとします。その人に、一人でバス停で30分待たせることが出来るでしょうか?説明無しに人を30分待たせるという事はまず出来ません。それこそよっぽど暇がない限り、時刻表もないバス停で、来るか来ないかも分からないバスをいつまでも待つことはないでしょう。特に「バス停」自体の意味も知らなければ、尚更待つことを期待する方がおかしい。
 ですから、長時間待たせなければならない場合には、「待つ事を教える」のではなく、「待たせずに、他に何をさせれば良いか」を考えます。子どもを外出先で待たせる必要があるのならば、ちょっとしたスナック類と携帯できるオモチャ類は必需品だと思います。待つのではく、代わりに何をしたら良いのか指示するのです。例えば、「待つんだよ。」というんではなく、「じゃあこのオモチャで遊びましょう」という風に持って行く訳です。お腹がすいてきたら、「もうすぐご飯だからダメ」ではなく、「ちょっとスナックを食べましょう、ちょっと食べたらすぐに遊びをしましょう。」という指示を与える訳です。これは甘やかしではなく、「説明があまり理解できない」という事を親が理解した上で当然の配慮をするだけの事です。泣いたり、逃げ出そうとしたり、近くの物に手を出そうとしたりする子どもに、「ダメ!」と何度言っても無駄です。逆にけんかになります。待っている意味が分からないのですから。
 今言ったような「ダメ!」という事を繰り返していると、逆に物に対して執着するようになることもあります。いつも「何となく好きな物をもらえていない(飢えている)状態」と言うと分かりやすいですかね。隠れて物を取ろうとしたり、反抗したりするかもしれません。物を我慢させるよりも物を与えるタイミングに焦点をあてることが大切です。我慢させたいなら、逆にいつもらえるのか分かりやすくしてやれば、飢えなくてすみます。欲しいと言われたら、言葉の分かる子どもだったら「ダメ」じゃなくて「じゃあご飯の後で」などいつもらえるのか教えてあげる。言葉がわからないのであれば、「じゃあ○○しなさい。」とレッスンのご褒美として与える。物への執着の強い子どもから、物を取り上げなければ行けない時は、「交換」なんてします。「これはダメ!」ではなく、逆に「これをあげる」ということです。

2013年2月8日金曜日

ABA:消去

 自閉症の療育に関わらず、ABAは誤解される事本当に多いんですよ。色々誤解されやすいような専門用語もあるし、その考え方自体が分かりづらい場合もある。今回はその中で「消去」について触れて行きたいと思います。というのも、先日あるお母さんから、以下のようなアドバイスを聞いた事があると聞きました。「外出先で子どもが泣いてしまった時、絶対子どもの思い通りにやらせてはいけない。子どもの思い通りにやらせてしまうと、泣くという行動を将来的に増やしてしまう。どうせ泣いても30分くらいなのだから、泣かせておけば良い。」どう思います?理論的には正しいけれど、外出先という状況を考えるともっと良いでしょう。
 理論的にちょっと説明しますね。例えばスーパーで買い物している時に、子どもが抱っこして欲しくて、泣くとしますよね。「泣く」という行動に焦点を置くと、親が抱っこする事で、行動の後に良い事があったのですから、将来的には抱っこして欲しければすぐに「泣く」ようになってしまう訳です。簡単に言えば、泣いたからと言ってすぐに抱っこする癖を付けているために、泣く行動がいつまでたってもなくならない。ではそれを変えるためには?泣いても抱っこしないようにする事で、その場一時的にはもっと泣くかもしれないけれど、将来的には徐々に泣かないようになっていく(泣く行動を消去できる)という事です。ただし、そう簡単に教科書通りに行くぐらいなら、コンサルタントはいらないですよね。
 先に「外出先という状況を考える」と言いましたが、一般の人(子どもの事やABAの療育などを知らない人)が見ている状況で子どもを30分泣かせるのは、親の気持ちを考えると疑問に思えます。ある自閉症児を持つお母さんが以下のような話をしてくれました(実際の話です)。このお母さんの子どもは、スーパーに行って欲しい物があると、すぐに泣いてしまい、あまりに大きな声で泣きわめくため、どうしても子どもの欲しい物を買わざるを得ないと話しました。以前ABAを少し知っている方から、「スーパーで泣いても子どもの欲しい物をあげては行けない」と言うアドバイスを受けてそれに従ったところ、45分間子どもが泣き続け、泣いたあげくに(意図的に出はないが、かんしゃくの一部として)ワインのボトルを落として割ってしまった。店員さんを呼んで片付けようとしているのに、子どもは先に店を出ようとしているし、他の人から注目を受けて、あまりの恥ずかしさにその経験がトラウマになってしまった。もうそのスーパーには恥ずかしくって二度と行けない。と言うエピソードです。アドバイスがトラウマにつながってしまっては、元も子もないですよね。これは極端な例かもしれませんが、状況に合わせて手法を変えるというのはABAに限らず大切ですよね。
 こういう失敗は、消去という手法だけに依存する方法だからです。先ほどのお菓子が欲しくて泣いてしまっている、鳴き声の相当大きい、しかも簡単に泣き止まない子どもの例を考えた場合、消去だけを使う事はお勧めできません。適切でない行動を減らすだけでなく、他に適切な(強化したい・増やしたい)行動を探して、どうやってそれを増やすのかを分析します。お母さんと一緒にショッピングカートをひいて(他に手を伸ばさないように両手を使わせる)、一緒に歩く事を教えたいとします。子どもが欲しいと思われるお菓子を最初から用意して(レジまで待たなくても良い)、子どもが泣く前に、ショッピングカートを持って一緒に歩いている段階で、好きなお菓子を与えてしまえば良いのです。好きなお菓子が得られる訳ですから、子どもは泣く必要がない。最初は買い物を一緒に全部済ませる事は無理かもしれないので、適切に歩く練習をするためだけにスーパーに行くのも良いでしょう。スーパーの中一列を正しく歩けた時に、「良く歩けたね。」と褒めてやり、お菓子(一袋全部ではなくても、一個だけでも)与えます。徐々に一列から二列、そして店全体など、お菓子をもらう前に適切に歩ける距離を増やして行きます。上の例の子どもは、この手法で徐々にお菓子を得られるまでの時間を延ばして行き、最終的には買い物を済ませて車に戻って来てからお菓子を食べるまでになりました。時間は結構かかりましたが、このケースには効果的でした。これはあくまで例なので、これが他の子どもすべてに当てはあるということでもありません。子どもによって歩ける距離の長さ、適切な行動の種類(カートを持つ、お母さんの手をつなぐ、ボールなど小さなオモチャをポケットに入れて触る、品物の名前をあてっこする)など、色々考えて子どもにあったものを選ぶ必要があります。一般に言えるのは、行動を減らしたい場合には必ず、代わりとなる行動を強化することで、消去の起こす問題(一時的にでも泣くという行動が増えてしまう)をカバーすることもできます。
 どうですか?消去ダメだとかということではなくて、ABAを使えば必ずしも同じ手法を使うとは限らないと言いたいのです。上の例以外の手法も当然考えられます。状況や問題行動、子どもの好きな物、なぜ行動が起こるのかなど、子どもにあわせて分析し、その分析に合わせてアドバイスをするのがABAであり、だから「応用行動分析」という名前なのです。「ABAはスパルタな印象があるからやりたくない」、という事を耳にする事もありますが、私からすれば「じゃあ、そうじゃないABAにすれば良いんじゃないの?」と思います。スパルタにやる事もできるし(それが好きな人もいるし)、そうじゃなくも出来ます。私の場合、できれば親の価値観を尊重して(そう簡単ではありませんが)、子どもにも親にもあまり無理のない手法をなるべく選んでやる事を心がけています。

2013年2月4日月曜日

日本の福祉制度に質問

 日本で生まれて、「自閉症の傾向があるのでは」と懸念された場合、一般的にはどういった流れで福祉のシステムが利用されるのでしょうか?私も自閉症の福祉制度を勉強するために、地元名古屋市や、愛知県のウェブサイトを見たり、自閉症に関連する施設に電話をかけてみました。電話に答えて、特に丁寧に説明くださった公務員の方、ありがとうございました。
 まず、愛知県のウェブサイトで検索のところに「自閉症」とタイプすると、「あいち発達障害者支援センター」が出てきます。ウェブサイトによると、これは愛知県の春日井市にあって、愛知県コロニー「緑の家」という名前で発達に心配のある子どもとその家族が宿泊して(1泊、2泊、4泊5日など)、治療教育や発達検査を受けられるようです。ウェブサイトの内容も分かりやすい。ウェブサイトで自閉症と検索するとすぐにセンター名前が出てくるのですから、愛知県で自閉症と言えばここに行くのだろう、と率直な印象を受けました。
 電話をかけてみると、応対はとっても丁寧。今思い返すと、一番先に電話をかけたここが、一番対応が良かったですね。丁寧に質問に答え説明してもらい、本当にありがとうございました。しかし丁寧な対応なのですが、愛知県の福祉の現状については、やや驚く事が多かったです。このようなやり取りです。
こうじ:「最近療育で起業したんですが、パンフレットをおかして頂けますか?」
担当の方:「多分良いんじゃないですか。ただ、ここは奥まった所だし、あまり人の目につきませんよ。」
(こうじ心の声:あまり人が来ないって?愛知県が全面に推しているのでは?)
こうじ:「じゃあ自閉症児を持ったお母さん達はどこへ行って相談するんですか?児童相談所とかですか?」
担当の方:「そうですね、どこに行くんでしょうかね?親は保育園の先生、保健センター、児童相談所ということもあるかもしれません。保育センターでは子育て支援や親子教育などもあるので。」
(こうじ心の声:保育園の先生や保育センターでの子育て支援っていうことは、自閉症の専門でない方が主に相談にのるということ?)
担当の方:「自閉症の診断が必要かの判断もあるし。タイミングもあるので。流れの中で、取りあえず上手くやって行ける事もあるので。」
(こうじ心の声:え?診断が必要?日本では自閉症って、症状がある時に診断するのではなくて、「必要」な時に診断するの?取りあえず上手くやって行ければ良いってことは、取りあえず大きな問題がなければ、何の対応もない?)
こうじ:「自閉症診断の必要があるかって、親が決めるんですか?驚きました。」
担当の方:「親が必要があったと理解した場合というか、手帳等のメリットがある場合には診断を受けることになります。医者の場合は心配だという意見を述べて、様子を見ると言う事が多いですね。」
(こうじ心の声:手帳などの福祉のメリットがあって初めて診断となる。確かに誰も何もしてくれないのに診断名だけあっても、仕方ない。)
 あとはのやり取りは大まかに、「あいち発達障害者支援センター」ではスタッフが6人で、コロニーの中の一部だということ。本当に小さいんですね。愛知県 の自閉症児の全般に対処しようとするセンターでは明らかにない。それから、ウェブサイトに「愛知県と名古屋市では自閉将群と診断されると、医療保険による 支給が受けられる」とありましたが、それは金銭的に(診断等を含む)医療費の支給が受けられるということ(療育は医療費は入らない)を聞きました。
 ここまでで、あまりの認識の違いに愕然としてしまいました。ABAの療育(治療教育)をすれば発達の度合いに大きな結果がある、特に幼い頃に療育始めれば、効果が大きいことが研究で分かっているのです。さらに言えば、それが分かってからもう20年になるのです。早期発見、早期療育が重要かつ必要なで問題となってきていて良い頃ではないでしょうか?日本では、保育園の先生や、保健所の保健師などがする「子育て支援」の延長として対応(健常児と発達支援の延長線上の対応)しているのでしょうか?色んな疑問がわきましたが、今回のこの程度の会話で日本の福祉を分かったつもりになっても仕方がないので、これからも少しずつですが色々公的機関に電話をかけたり、尋ねたりして勉強させて頂きます。まだ私が知らないだけで、自閉症、広汎性発達障害に大切な福祉の制度が色々あるかもしれません。
 今回担当の方とのやり取りを官公庁の許可も取らずに暴露してしまったわけです。特に個人情報はのっていないのですが、法律上問題あれば言ってください。このブログもはずします。ただ、誤解してもらいたくないのは、公務員が良いとか悪いとかを判断するためにやっているのではないのです。私も日本で3年、アメリカで3年公務員をさせていただきましたが、公務員とは、法律で定められた仕事をするだけなのです。それ以上でもそれ以下でも行けないのです。その法律を作るのは議員さんなどの政治家であり、政治家に決められた法律を履行するのに必要な細かいルールを決めるのが官僚のトップです。 議員さんを選ぶのは誰?有権者なのです。私たちが決められるのです。公務員のやる仕事がおかしい、と思ったら変えればよいのです。変えるには、民主主義ですからある程度の人数の声が必要です。皆で声に出して行きませんか?

2013年2月1日金曜日

教師の体罰その3

 前回から引き続いて、体罰についてコメントします。今回は科学的な専門家としての話ではなく、私の日本とアメリカでの経験を基に体罰の善し悪しについて、その背景にある日本の文化について語ります。
 突然ですが私の父は体育会系(元警察官)で、体罰容認派ですね。彼の意見では、「叩かなければ危ない行為を繰り返すやつもいるからなあ。怪我をするくらいなら、叩かれてその前で済む方がましだと思うけどなあ。」「叩いたりする事を指導と受け取るか、体罰と受け取るか。ちょっと叩かれたぐらいで嫌になるなら、そんな態度ならスポーツなんて止めてしまえば良い。」 といった感じです。 私の母はやや中間派で、「子供によって受け取り方はそれぞれだから、こうじの様に気にしていつまででも覚えているような子にはやっては行けないし、いくら叩いても全然気にしない子供もいるから、子供に合わせなければいけない。」「優しくだけしていればコーチもなめられるし、中学生や高校生の指導は難しいか も。」なんて言っています。ちなみに根性のない文科系(文科系の皆様ごめんなさい)の私は体罰否定派です。やっても意味のない(良い効果が得られない)、しかも副作用もある体罰はやる意味がわからない。
 父の話を聞くと、罰を受けて「危ない行為」を減らす方が怪我をするよりも良いのではないか、と言う所が特に説得力ありますよね。しかしこれも論理に落とし穴があります。「危ない行為」をよく聞くと、「ちんたらやっている」とか「気合いが足らない」とかなんです。「気合い」というのは目で見えませんから、「走るのが遅い」「声の出し方が小さい」等の行動で判断しますよね。では、「声が小さい」「ゆっくり走る」人は「怪我をする」のでしょうか?もちろんそんな因果関係はないのです。「気合いが入れば怪我が少ない」という事を信じた結果、「ゆっくり走る」「小さく声を出す」という直接には怪我に関係のない行動も許せなくなってしまったのかもしれません。ニュースで報道された柔道のコーチの話を聞いても、「朝トレーニングに遅れてきた時に、叩いた」と言っています。時間を守るって、柔道の技術に直接関係ないじゃないですか。父のように、「朝遅れて来る」→「気合いが足らない」→「怪我につながる」という論理になってしまったのかもしれません。もちろん大間違いの考え方と思います。
 教育をする際は、危ない行為を罰するのではなく、安全のためにやるべき行為を増やすことが重要になります。例えば姿勢の取り方や体の動かし方などの、「直接怪我につながるような姿勢(良い姿勢)」「安全にプレーするために必要な姿勢(良い姿勢)」が特定出来るのであれば、悪い姿勢をした時に罰をするのではなく、良い姿勢をした時に褒めてやれば良いのです。安全なスポーツを教えるなら、こういった直接関係のある行動にまず目を向けて、しっかり教育して欲しいものです。
 私も小学生の頃は学校で体罰を受けました。例えば、朝礼 の時に校長の話をきちんと聞いてなくて、手をもじもじしていたりすると、平手打ちをくらったり、部活でタラタラとおしゃべりしながら走っていると、頭を小突かれたりとかです。私の場合別に叩かれて他に悪影響があった訳ではありませんが、ただよく考えれば、驚く程どうでも良い行動に体罰が使われていますよね。校長の話がそんなに重要か?ちんたら走っていて、そんなに悪いか?大人になっても続けているような行動ですから、行動自体は大事ではないのだけれど、 指示には従ってないということなんでしょうね。簡単に言えば、「指示に従わなければ殴るぞ」ということですよね。生徒を力でねじ伏せようとしている。こういう教育の姿勢が問題ですね。
 「指示に従う」能力も重要な行動です。私からすれば、生徒が指導に従わないのは、指示が分かりづらかったり、指導に従った時に褒めてあげてないからです。そりゃ生徒だって人間だから、先生の指示に従ってすごく良かったという経験でもなければ、指示には従いませんよ。指導に従う事の良さ、大切さを経験させていないのです。生徒が指示に従わないと、「なめられたらいかん」という恐怖感がわいたり、自分の思い通りにならないことにイライラしたりして、かっとなって体罰を使っている先生もいるかもしれません。罰を使って指示に従えるように教えようと考えるのは、褒める努力を怠ろうとする怠慢さではないかと思います。
 テレビでも最近やっと日本の体罰を容認する姿勢が疑問視されてきました。良い傾向だと思います。現在でも先生が指導の一環として、平手打ちなどを当たり前のことのように使っている事がおかしいのです。さらに言えば、見る側もそれを容認してしまっているから被害者が減らないのです。ニュースを聞く限り、この現代においてもまだ体罰を教育委員会に報告しないとか、私の父ではありませんが、あっても良い事のように捉えられているような印象です。体罰をする側の「しっかり教育したい」という意図に合わせるのではなく、体罰を受け取る側の感じ方に合わせる必要があるのです。100人に一人でも1000人に一人でも、それが原因でずっと心に傷を負う事があるなら、止めるべきですよね。これは体罰だけでなく、口でする虐待も同じだと思います。いじめと同様、学校全体で容認しないという姿勢が必要なのです。
 スポーツ関係は熱が入るので、特に体罰が容認されやすいかもしれません。スポーツの熱に流されずに、受け取る側の気持ちに立った判断が重要という例を挙げます。アメリカにあるスポーツで有名な大学の監督がいて、その監督の活躍のおかげでチームが何度も勝利に導かれ、その功績が認められて監督の銅像まで建てられたのです。地域の英雄的存在です。しかしその後、チームのコーチが生徒に性的虐待をしていたことが発覚したのです。実は監督はその話をすでに知っていて、大学側に報告していたのですが、大学側がもみ消しました。監督は大学側に判断をゆだねたまま警察には通報せず、そのままにしてしまっていたために、さらに何人もの性的虐待の犠牲者が出たのです。もちろん虐待した人ともみ消した大学側が一番悪いのです。始めにこのニュースが出た時には、スポーツファンが大勢で集まって監督の事を擁護する意見を述べていました。監督はやっていないのですから。しかし、どうでしょう?性的虐待を受けた側から考えたら、見逃した人も同罪ですよね。一生残る傷を受けたのです。犠牲者が監督の息子や孫だったら、絶対に監督は警察に連絡しているはずです。警察に通報しなかった監督って、まだ英雄ですか?被害者の親の気持ちに立って考えなければ行けないんです。その後にその大学のスポーツの勝利も取り消しとなり、監督の功績もすべて取り消しになり、銅像も取り外されました。性的虐待の場合はその被害の深刻さが明らかかもしれませんが、心的苦悩はそれぞれですから、体罰でも、セクハラでも、いじめでも、嫌がらせでも、基本は同じです。「私は平気だったから、あなたもあれぐらい平気でしょう?」という論理は当てはまらないのです。平手打ちで生徒に怪我を負わせた先生が、教育委員会にも報告されていないなどとは、被害者の人権を完全無視しているとしか考えられません。
 でも、一体日本でどうしてこんな事になったんでしょう?日本人は我慢強いからですよね。スポーツでは、何となく我慢した人ほど強くなるような気がしません?つらく、苦しい事を我慢して成功した人は、楽しんで成功した人よりも、なんとなく美しいような気がしませんか?日本では我慢自体が美しいんです。アメリカ人だったら楽に成功した方が良いんです。我慢強いことが日本の成功にもつながったのでしょうが、体罰を容認してしまったという意味ではそれが逆効果になったのかもしれません。我慢しなくても良いんです。褒められて成功し、褒められて楽しくスポーツやって強くなれば良いんです。褒めて、褒めて、教育する事を学びましょう。

教師の体罰その2

 ここ一週間程度で学校における教師の体罰、柔道等のスポーツにおける体罰が新聞やニュースに連日のように取り上げられ、大きな話題になっています。体罰については皆様も色んな意見があると思います。私もこれまでにもブログの投稿でコメントしてきましたが(「罰」「教師の体罰、指示に従う事」)、せっかくの機会なのでさらに押し進めて行きたいと思います。行動を科学的に考える専門家の立場から体罰の効果について、それから体罰の背景となった日本の文化、価値観について、外国暮らしの長かった者の視点からコメントさせて頂きます。
 まず行動の専門家の立場から、なるべく専門用語を使わないで話します。ここでは、「体罰を使う事が良いか、悪いか」といった価値観ではなく、「体罰を使うと行動の変化に効果があるか、ないか」ということから始めます。行動の科学という視点から罰の使用が研究され、その効果や副作用なども色々分かっています。罰を本当に簡単に説明すると(科学的には正確な説明でないのですが)、行動の後に何か嫌な事があって、その行動が起こりづらくなる事を言います。罰で行動の頻度を下げることは可能です。しかし、「罰」の投稿で例を挙げて説明しましたが、受けた側に対して副作用を起こす可能性がある使いづらい手法なのです。副作用としては以下の通りです。
  1. 恐怖反応(怖くなっちゃったり)や八つ当たりなどを起こす
  2. 罰を受けたその場面や、罰を与えた人を避けようとしてしまう
  3. 罰を出す人がいない時に、逆にその行動が増える (スピード違反などはカメラのある所だけスピードを落としますよね)
  4. 罰を使うという行動の見本を見せる(真似させてしまう)
  5. 代わりに何をしたら良いのかは教えられない
専門家がうまく使った場合にもこれだけ副作用があるのですから、専門家は安易に罰は使いません。ですから専門家は、罰を使って行動を減らすのではなく、代わりに副作用のない「強化」を使って望ましい行動を増やします。「強化」を簡単に言えば、正しい行動があった時に褒めたりして将来もっと起こるようにするのです。
 ちなみに、上記の副作用は、罰が上手く使えた場合(減らしたい行動が減った時)にも起こりますが、下手に使った場合(行動が減らない時)にも起こります。私の専門家としての経験から言うと、上手く使っているつもりで実は上手く使えていない場合が多いのです。どう失敗するかというと、簡単に言えば使う時のタイミングがずれているために、減らそうとした行動が減らないということです。そうなると、減らしたい行動が減っていないのに加えて、副作用はそのままあるので、まさに踏んだり蹴ったりです。
 もう一つちなみに話しておきます。特例中の特例ですが、アメリカで罰を使って、しかもヘルメットから流れる電気ショックを使って問題行動を減らす所があります。意外でしょう?これは自傷行動など(腕を噛む、頭を叩くなど)で早急に行動を減らさないと本人に体の危険があり、これまでに他の方法を使っても効果がなく、専門家に監督・統制された教育環境で行う、などといった特別な条件のみに限ってですが罰の使用が法的に認められています。特例ですが、罰を使うこともあるんです。
 以上の事からお分かりのように、「効果」と言う事だけを考えても(価値観としての良いか、悪いかは別としても)、行動の専門家でない一般の教員やスポーツのコーチが自分の経験だけで体罰を使った場合、意味のある効果を得る事はまずない、副作用によって逆効果もよくある、と考えるのが専門家としての私の立場です。
 ちょっと長くなってきたので、体罰を使う善し悪し(価値観)について次の投稿をしたいと思います。