2013年12月29日日曜日

自閉症の子どもは話せるようになるのでしょうか?

 「私の子どもが自閉症と診断されました。将来話せるようになるのでしょうか?」私の相談室にも時折こういった内容の質問の電話がかかってきます。残念ながら「分かりません。」と答えるしかありません。基本的に自閉症と診断された時点で、何らかの言語の遅れがあると認められた(そうでなければ診断されない)訳ですから、言語の発達に危惧があることは確かです。自閉症と診断される方の中の、会話が完全にできない方もかなりの割合でいるでしょう。ただし私の経験からすれば必ずしも「話せるようにはならない」ということはありません。診断された方の中にも、少数派かもしれませんが将来会話ができるようになる人もおられます。早期の治療教育が功を奏したのかもしれませんし、もともと診断が間違っていたのかもしれません。
 「会話が出来る」と一言で言っても、色々です。片言でしか話せない場合もあれば、すらすら話せる方もいるでしょう。一定の質問にはすぐに答えられても、それ以外の質問やコメントには反応しない又はできないような人もいます。通常の会話はできても、会話に含まれるニュアンスがわからなかったり、文字通り捉えられない冗談や皮肉は分かりづらい方もいます。もちろん言語の難しさは自閉症に限られた訳ではなく、自閉症の診断がなくても、同様の言語の難しさを抱える人もいます。
 診断をされた時点で、「これまで思い描いて来たものとは違う将来になるかもしれない」という覚悟は必要だと思います。ただし、自閉症とは本当に様々な症状が見られるので、千差万別というか、中々「こうである」と言い難いのです。言語のレベルも様々、こだわりの強さも様々、人間関係の構築度合いも様々ということになります。
 さらに言えば、「障害がある」=「何かができない」と考えることは、本人の可能性を否定してしまうことにもつながり、得策ではないかと思われます。パラリンピックに出られるような選手の方は、障害を持ちつつもスポーツを続けておられるかもしれません。両足をなくした方は、もう足を持つことができません。しかし「もう歩けるようにはならない 」「スポーツができない」ということは、必ずしもないのです。「自閉症である」ということは、同じことを何度も繰り返し言うかもしれないし、強いこだわりがあるかもしれません。うまく自分のことが表現出来ないかもしれません。しかしこれは、「将来仕事が持てない」「人を感動させられない」「人を好きになれない」ということではないのです。

2013年12月25日水曜日

スクープ:褒めて育てる

 メリークリスマス!!今年も皆様が大切な人と一緒に楽しいクリスマス・年始年末をお過ごしできますことを、お祈り申し上げます! いつも読んで下さっている方、ありがとうございます!
 先日清洲城に行って来ました。清須会議で最近少しだけ脚光を浴びている清須市ですが、平成元年に立てられた清洲城では清須会議で使われた衣装なんかも展示されてました。(ちなみに清須市と清洲城、この漢字で合ってます。なぜ違うのかは私には分かりません。)私の教室も清須市にあるので、地元民として一応チェックしておきました。お城前の公衆便所に入ると、小便器のところに面白いサインをみつけました。男性用の小便器に入る芳香ボールってあるじゃないですか?小便器の中に転がしてあって、小便が当たると消臭芳香の機能がある、あれです。それが入っていたんですが、「芳香ボールを盗まない」というサインが貼ってありました。ええ?と思いません?芳香ボールって無数の人の小便がかかっているやつですよ?誰がそれをつまんで盗んで行くというのか?でも、サインが貼ってあるとうことは、誰かがきっと盗んだんですよね・・・。大体芳香ボールって男性用小便器にしか使えないし、ほとんどの家庭では使えないはず。いい臭いを得たいがために、誰かがそれに手を伸ばして持って行ったとでも言うのであろうか?謎です。
 こういった「禁止」「ダメ」というサインは、よく見かけますよね。しかしABAベースの教育を行う際は、そういった禁止の指示はなるべく必要最小限にしたいものなんです。間違った行動が起こってから「ダメ!」というよりも、ではどんな行動が望ましいのか考え、褒めたりご褒美を与えたりしてそれを増やすことで間違った行動を減らします。間違った行動だけ減らしても、代わりに何をすれば良いのか指定しない限り、結局問題は解決されておらず、違った形の問題行動になって帰ってくるからです。最近のトイレでは、「きれいにお使い頂き、ありがとうございます。」というサインも現れ始めました。「汚しちゃダメ!」よりは良いかと思います。私たちが子どもとのやり取りする際、気づけば「ダメ!」と叱ってしまいがちですよね。コンサルでも、「こんな問題行動があるので、どうしたら良いでしょうか?」という質問の方が、「こんなことが出来ないので、どう教えれば良いでしょうか?」という質問と同じく多く見かけます。本当は良いことをどんどん褒めたいのですが、実際には自分で気づかないうちに後手後手に回って「ダメ!」を繰り返していることもありますよ。こういった悪い癖も、誰か第三者が見てくれてフィードバックしてくれると、わかりやすいですよね。
 私はSCOOP(スクープ:Systematic Carousel Observation of Performance)というデータの取り方を覚えました。この方法では、どれだけ私たちが子どもを褒めて、どれだけ「ダメ!」と言っているのか、数値に換算することができます。(何でもデータにして分かり易くビジュアルにして表現してくれるのも、ABAの特徴です。)この方法では、教える側が「これして」という普通の指示を出すと、「I」 (Instructionー指示)と記号化し、「それしてはダメ!」という指示を出すと、「I -」 (Instructionー指示のマイナス)と記号化します。子どもが指示に従ったり従わなかったりするのも、記号化します。その子どもの反応に対して私たちが取る行動も「P」(Praiseー褒める)、「S」(Specific Praiseー何が良かったか指摘して褒める)などと記号化します。難しい記号化は止めておくとして、こうやってデータとして解析すると、私たちがどれくらいの割合で「ダメ」と行っているのか、どれくらいの頻度で褒めているのか、一目瞭然になります。さらに言えば、指示を出して子どもが従っているにも関わらず、どれだけ私たちが「褒め忘れているか」にも気づかせてくれます。褒めていないのに、「指示に従わない」と文句は言えませんよね。同様に指示を出して子どもが従っていないにも関わらず、何も行動しないのも問題です。指示に従わなければ、(もしできないのであれば)やり方を教えてあげたり、(もしやりたくないだけであれば)しっかりと手を掴んでもやらせたりしなければ行けません。こういった小さなやり取りの積み重ねが、子どもの行動を徐々に変えて行くのです。
 でもよく考えれば、良い行動を褒め、指示に従わない行動を見逃さないというのは、本来の教育では当たり前のことですよね。昔から評判の良い先生は子どもの良い行動を見逃してないはずです。指示に従わない行動も真摯に対処してきたはずです。ABAと言えば、何となくアメリカから来た物で目新しいことを期待される場合もありますが、実際はこういった地味な作業であったり、当たり前なこともするのです。当たり前のことを形にすることも、当たり前のことを「良い」としっかり再認識することも、時には役に立つものです。

2013年12月18日水曜日

小さな問題解決

 先日牛丼が食べたくなりました。松屋さんと吉野家さんがあって、松屋さんの方に行ったんですけど、何故かドアが開かないんです。ガラスの向こうにお客さんが牛丼食べている様子が見えるけれど、何故か自動ドアが開かなくて私は入れない。最近の自動ドアって、ちょっと触ったりしないと開かないようになっているのってあるじゃないですか?そういうのだと思ってボタンを探してガラスを触っていると、なんだか一人でパントマイムしているようで、非常に恥ずかしい。もしかしてドアが違うのかと思って、立ち去るふりをして周りを歩いて行っても、他にはドアが見つからない。恥ずかしくなって結局吉野家さんにしました。もちろん、「ここに入りたかったわけじゃないんだ」、というような演技で立ち去りましたけど。吉野家さんは良いですよ。中に入れる。牛丼屋さんに入れないのって、もしかして私だけでしょうか・・・。
 人生ってこういうことですよね。毎日色んな問題がある(私だけかも)。でも、療育では私はわざと「もしかしたらこんな言葉はしらないかも」という言葉を使ってみます。知らないことを言われてどうするのか?それが普通の生活に近いと思います。人の言っていることがすべて分かる子どもっていないじゃないですか?あまりに言葉を子どもに合わせてしまうと、学校や他の場面でそういう普通の問題に打ち当たってパニクったり、問題行動を起こしたりしかねません。(療育の最初の場面では子どもが分かるように言葉を選択するので注意!その後徐々に切り替えていきます。)
 それから「消去」のところで少し話しましたが、子どもが問題にぶつかった時にも、「わからないねえ。難しいねえ。」などと共感するようなことを言っても、答えをすぐに教えません。すぐに答えを教えてしまっては、「そういう場面に色々なことを試してみる」という大切な行動が学べません。外国に行った時を考えれば、相手に自分の言いたいことが言えないですよね。その時に、黙っていたら分からないじゃないですか?何か色々、間違っていても、ジェスチャーでも何かした方が、意思が伝わる可能性が高い。何もしなければ、問題行動を起こしていれば、可能性はゼロです。私も松屋の牛丼は食べられなかったけれど、吉野家のは食べられた!それで良いじゃないですか。小さな問題解決。こういう小さな問題を解決出来る場面を一日何度もします。障害がある子どもだと、逆に「できないから」と勝手にこちらが答えをすぐに教えてしまう場合が多いです。それでは「何かトライしてみる」という行動は学べません。
 さらに、ここからは私の個人的な経験からですが、言葉が出来る子には、言葉の使い方も教えます。私たちって言葉で、「もしかしたら、ボタンがあって、押せばドアが開くのでは?」等と考えながら色々な方法を試します。そういう自問自答のような言葉の使い方も、徐々に出来るように教えていくので、「できないね。じゃあ周りをみてみようか。」「こっちがだめなら、他にはやり方ないかな?」等と言う言葉をプロンプトします。 言葉で間をつなぐと、すぐに諦めずにちょっと色々試すような行動にもつながり易い気がします。

イヤイヤ期

 「イヤイヤ期」ってありますよね。英語ではちなみに"Terrible two(ひどい2歳)"なんて言いますが、こういう言い方があるということは、文化を超えて2−3歳という時期が色々と指示に従えない難しい時期であるようです。私の教室にも、朝私の顔を見ると「先生イヤイヤ」と言う子がいます。「おはよう」と挨拶すると、「おはよう、しない」と返します。でも、他の子どもに気を取られていると(無視していると)、わざわざ私の目の前に顔を出して「せんせい、おはよう」と言って来ます。ちょっと指示を与えると「イヤー!」と叫んだり、わざわざテーブルの上に登って「テーブル登る、しない」と自分で言ったりしています(叱られる言葉を先取りしている)。しかし、「イヤ」、「しない」と言いながらも、結局たくさん楽しんで帰って行くし、色々教えられているし、色々観察しているからか、こちらが教えようとしないことまで等色々と学んでもいます。「イヤ」と言いたい、言われたことをやりたくない、やってはいけないと言われたことをしてみたい、という時期なんでしょうね。私も無理に抑えつける様な教育は避けています。
 イヤイヤ期はもちろん誰にでもあるということではなく、何の反抗もなくのんびり育つ子どももいます。ちなみに私の母親によると、幼児期の私は何の問題もなく楽に育ち、私の姉は反対に大変だったようです。そうかと思えば、私は40過ぎた今頃でも会うたびに「イヤイヤ」反抗し、万年イヤイヤ期に突入しています。うちの母親は「ああした方が良い」「こうした方が良い」と色々と忠告したいタイプなんですが、私は忠告されるのが嫌いなんですよ(勝手ということか)。うっとうしくなってイヤイヤ言っている私に、母親はいまだに「素直に聞きなさい!」って怒っていますが、言う方も言う方ですよね。40過ぎの男に何言ってんだか。まあ小さい頃楽だからと言ってそれが続くとは限らないということですね。
 おっと話を戻すと、治療教育で難しいのは「イヤイヤ期」だからこんなに反抗するのか、自閉症などの発達障害から来る特有の問題行動なのか、なかなか区別がつきにくいことでしょう。2−3歳だからと放っておいて良い問題なのか、積極的に改善させようとした方が良いのか、難しい時もあるでしょう。基本は問題行動が学びの障害になっているか、そうでないか、こちらはそれに合わせて反応を変えて行きます。学んでいるのなら、無理に「イヤ」を直す必要がない(「イヤ」が問題行動ではない)ということです。手間がかかるだけでは「問題」にしてはかわいそうでしょう。でも、2時間泣き叫ぶ様な場合はその分2時間学びが妨害されてしまったので、問題でしょう。ところで「イヤー!」と叫んだり、床に寝転んでわめいたりするような行動を改善させる際に、ABAでは基本的には「機能」という考え方をします。なぜこの行動をしているのかという理由が、行動の「機能」と呼ばれるものです。この問題行動の理由によって対処方法を変えるのが当然ということでしょう。
 例えば、「片付けて」と言われただけで、「イヤー」と叫んで床に転がる子もいます。自閉症の診断がある場合、「片付けなさい」とさらに強く指示を受ければ、先ほどの言ったように1時間でも2時間でも泣き続けるようなことは良くあります。これでは他の学習や活動に障害がでます。自閉症などの診断がある子どもは、ちょっとでもいつものやり方と違うとストレスになる(こだわりが強い)場合があるので、片付けという動作が難しいというよりも、例えば「片付けは親がするもの」という勝手なルールがあってそれを外れるので問題行動を起こすということも考えられます。いずれにせよ、片付けという一見簡単な課題の遂行が難しかったわけです。こういった場合は、課題遂行を徐々に少しずつ教えて行きます。片付けであれば、例えば最初はゴミ1つゴミ箱に入れるとか、本1冊を本棚に返すとか、簡単な片付けから教えて行きます。結局のところ子どもが泣いてもわめいても片付けをさせるわけですが、その代わり「ゴミ一つだけ」など、課題のハードルを非常に簡単にすることで成功体験を積ませて行き、気がついた時には「片付けは私ができる」というルールに変わっているということが理想ですね。
 これに反して、 健常発達の子に見られるイヤイヤ期の場合は、相手の反応をうかがっているというか、相手の反応が見たくて「イヤー」と言っている場合が多いのではないでしょうか。与えられた課題が「イヤ(難しい、面倒臭い)」ということを上回るくらい、お母さん、お父さんの怒った顔が見たい、とでも説明しましょうか。叫びながらも涙が出ずにしっかりと親の顔を見ていたり、まさに「ほら、僕ってこんなに悪い子。こんなことしたら、どうするの?怒るの?怒れないよね、だって僕2歳だもん。」とでも言っているかのようです。一つのことで2時間泣き続けることはありませんが、それでも面倒くさいかと言われれば、非常に面倒くさいです。相手の反応が見たいということが理由で怒っている行動なので、「またそんなことして!何度言ったら分かるの!」と感情的に怒ってしまうとか、ドラマチックな反応を見せるとか、こういった親の対応はまさに子どもの「思うつぼ」で、逆効果になります。まあ健常発達の場合、いつか過ぎ去る問題ですから(結構長引く子もいますが)、あまり騒ぎ立てず静かに待つのが得策です。冷静に対処というのは、「イヤー」と叫ばれてもやらせることはやらせて、「相手の反応を見たい」という子どもの欲求を満たさないようにしなければなりません。しかし、「相手の反応を見たい」という欲求自体は悪い物ではないので、逆にもっと正しい行動をした時に満足させなければいけません。例えばゲーム等で親が驚いたり、笑ったり、怒ったりといった喜怒哀楽を見せる等、他の楽しい行動をして同じ様なドラマチックな反応を見られるようにする必要があるでしょう。
 しかし、実際療育をする場合はそのコンビネーションといったことも多いです。 時にはこだわりのために泣いていて、時には本当に指示されたことが出来なくて泣いており、時には相手の反応を見るためにやっている。治療教育が上手く行って色々なことがわかるようになったり、前まではあまり興味のなかった人の反応が面白くなってくると、問題行動も少しずつ複雑になってくることがあります。これまでの単純なこだわりが抜けて、違ったこだわりに変わる場合もあります。いずれにせよ基本は同じことでしょう。何が目的になっているのかを推測しながら、対処を変えて行くのです。子どもは「イヤー」と言って泣いているだけでなぜ嫌なのか言ってくれませんから、「ちょっと出した課題が難しすぎたか?次は優しくして行く必要があるのか?」「ちょっとこちらの対処が感情的になりすぎているか?次からもっと冷静にする必要があるか?」等、色々子どもの様子と自分の対処を冷静に考察する必要があります。まあ自分の子どものことになると、中々冷静に対処できませんよね。そういった人間らしさも大切ですから、冷静でなかったからと言って、がっかりしないでください。子どももちょっと「イヤイヤ」がある方が子どもらしいですよ。完全を求めないところが、鍵になります。

2013年12月2日月曜日

性格タイプと失敗しやすい問題1:「ほっとけない」タイプ

 お久しぶりです。何ヶ月かぶりのブログ再開です。
 名古屋で仕事を面始めてから約1年になり、おかげさまで順調にお客様も増えてきました。なんだか突然忙しくなったような感じで「わたわた」してましたが、やっと気持ちが落ち着いて来ました。突然ですが、最近テレビなどでも紹介された「あべこべ体操」って知ってます?普段使わない様な筋肉の動かし方(体の部分をあべこべに動かす)をすることで、肩こりをほぐすんだそうです。私は結構「健康系」のもの好きなんですよ。テレビを見ながらやってみたのですが、あべこべにするって、本当に難しいですよね。テレビで見本を見ても体操の真似が中々できなくて、イライラする。新しい仕事を始めるって、そんな感じですかね。今まで使ってない筋肉を使うというか、今までやったことのない生活習慣のやり方で、実質上の「忙しさ」というよりも生活習慣の変化とか気持ちの切り替えに体がなかなかついて行っていなくて、必要以上にぐったりする印象です。加えてこの何ヶ月かで引っ越しもしたり、私的な人間関係でも色々あったりで、大変でした。まあブログネタも色々あったかな?またボチボチですが、これからもブログでお知らせしていきますね。よろしくお願いします。
 ちなみに皆さん背中で両手を(片方を肩の上から、もう片方を肩の下から曲げて)合わせられます?テレビでは「あべこべ体操」をした人が、体操終わった後でこれまで触れなかったのに触れるようになった!っと言っていましたが、私は全然でした。どういうことだ?誰か効果があった人あったら教えて下さい。
 今回は、私が臨床で観察して来た子ども達の性格のタイプと、その子ども達の陥り易い問題等を取り上げます。第1弾は、「ほっとけないタイプ」または「省エネタイプ」と読んでいます。 これは、自分のエネルギー(労力)をなるべく使わないで生活しようとするタイプ。困ったことがあっても、できるだけ自分から積極的に行動したりせずに、「困ったなあ」と困ったまま待つことが多く、そのため周りの人が「ほっとけない」とつい思って手伝ってしまうため、周囲から色々とやって貰うことが上手です。こういった人は、世の中に必要ですよね。人の世話を見たい人はいくらでもいますし、逆に体を動かして精力的に行動する人よりも「もてる」タイプかもしれません。自閉症に関わらずよくある性格のタイプだと思いますが、発達障害とこの性格タイプが重なるとちょっとというか、色々不都合が出て来ます。
 幼い子どもで、発達障害があり、「ほっとけない」タイプ、この3つが重なるとどうなるか?たまらなく「かわいい」のです。自分で問題解決しないので、困ったまま悲しそうな顔をしています。ちょっと泣いてみたりします。やってあげると、にこにこしています。親がやってあげない訳には行かないでしょう?気づいた頃には結局親がすべてやってしまっているので、これはこれで上手いスキルかもしれない。親も「この子はできないから」なんて文句を言いながら、でもまんざらでもなさそうです。やはり、子どもの面倒を見るのはある意味親の幸せですからね。上手に出来ない子って本当にかわいいんです。そのため、子どもはすべてやらなくてもスルーしてしまいます。着替えや片付け、あいさつ等を含むコミュニケーション、さらに遊びや時には食事まですべて文字通り「お膳立て」してもらって生活が済むので、その副作用として学ぶ機会が格段に減ってしまっている状態にある場合が多いのです。「遊び」をやってもらうって、どんな感じか想像できますか?自分でオモチャを取りに行ったりして積極的に遊ばず、椅子に座ってぼんやりしたり、カーペットに寝ころんでグダグダしたり、ということです。「もう、この子はいつもこんな感じなんですよ」と言いながら親はオモチャを持って来てあげたり、本を読んであげたり、結局何もしない方が色々な物が向こうからやってくる仕組み。
 このタイプは、色々自分からやる楽しみを経験させてあげる必要があります。自分から自発的に動いて何か楽しいことがある(強化といいます)経験を積ませる、もっと言えば、ぼんやり待っているより自分から働きかけた方が早いし、楽しかったという経験が何度もなければいけないのです。ただし言うのは簡単、こういった経験させるのは忍耐力が必要です。「待ち」の勝負になるからです。例えば、靴箱に靴を入れる。靴ぐらい入れられそうなもんじゃないですか?でも、子どもが自分から靴を入れるのを待って放っておけば10分でも20分でも玄関で中に入らずに待っていることだってあります。玄関で20分はつらい!しかも、可哀想な感じで悲しげに泣く訳です。「玄関で泣いている子どもを20分も待たせて入れてあげないなんて、何てひどい親なの?」といった感じになってしまいます。でもこちらがやってあげると、子どもからすれば「やはり待っていた方が得になる」訳で逆効果になります。待ってでもやらせた方が、長期的に見ればずいぶん時間の短縮になります。幼い子どもの場合、靴を下駄箱に入れることを完全に自発でこなすようになるだけで何ヶ月もかかる場合もよくあります。しかし色々自分でやらせて行くと、何となく印象が変わって来ます。動きが活発に早くなり、ぼんやりしていた子どもが何となく楽しげになります。「こうしたい」「ああしたい」という自我も強くなるので逆に面倒かもしれません。でも、それがもっと子どもらしいでしょう?
 私の所に来ると、「やってあげないで下さい。」という所から始まります。そう言うと、大抵「え?」っというような表情をされます。 やってあげていることにも大抵気づいていません。「だってこの子はできないから、やってあげることが当たり前になっていたのです」ということでしょう。でも、本当は「出来ない子」ではなくて、「やろうとしない子」なのです。出来ないのではなく、ただの「省エネ」なんです。私はお母さん方に、「この子が自分でできます。」といって手助けしないようにお願いします。最初は大抵泣くところから始まります。「ええ?荷物持つってどういうこと?」「ええ?靴片付けるって何?それって、お母さんが持つ物じゃないの?」ということです。怖い怖い。でも、もっと怖いのは将来です。家庭から学校等に出た場合、先生や知らない人から見ると、何もしなくてぼんやりしている子どもの状態から「この子はできない」と瞬間的に判断されて、すべてやってもらってしまう場合が多いのです。集団場面では、どうしても色々なことが常に起こっているので、なるべく手間がかからない方がに流れ易いので、先生がやった方が逆に時間が省けます。本当はできるはずのことをやらないということは、本当は受けるべきはず教育の機会がどんどん失われるということです。早いうちから、自分でやらせる訓練はしていきましょう。

2013年8月28日水曜日

ABAの誤解:極端なもの

 久しぶりの投稿になります。みなさま元気でやっていらっしゃいますか?ここ最近やっと暑さが落ち着いてきましたね。昨日と一昨日はクーラーなしで寝てしまいました。
 先日「カプセルホテル」に泊まりました。いや、面白いですね。日本ならではですね。サウナや温泉(人口ものだけれど)がついていて、24時間いつでも入れる。ただでマッサージチェアーもある(大好き)。朝食にインスタントコーヒーとバターロールまでついてきた。面倒くさいのはお風呂やロッカー、ベッドなどがそれぞれ別の階にあり、エレベーターが1つしかなく、階段も非常時以外は使えないこと。ベッドはそれほど快適ではなく、近くの人のいびきや目覚ましの音も聞こえる、ということかな。また泊まりたい?微妙なところだね。面白いのは確かだ。便利なのも確かだ。4千円弱で泊まれる安さも魅力だ。でも、人のいびきを聞きながら眠れます?
 最近感じるのですが、ABAが良いものか悪いものか、「微妙」というような印象を持たれている方が多いのです。ABAは最近結構有名になって来ているらしく、私の所に来る方もABA知らなかったという人はまずいませんね。「必要だ」と言われて来る方もいます。良い情報が色々と出回っているというのはやはり嬉しいですね。ただ嬉しい反面、妙な誤解というか偏見というようなものも出来てしまっているようですね。テレビで紹介されることも増えたからでしょうかね。テレビではやはりインパクトが強いように作らないと面白くない、視聴率が伸びないということもあって、一部が誇張されて紹介されてしまう等、誤解が生じることもままあることだと思います。よく言われるのが、「ABAは無理にでもやらせる(泣かせても無視する)」 というような漠然とした印象です。確かに、泣いていても指示したことをやらせるということはありますが、それ一本やりでは明らかに失敗するでしょう。私もできれば泣かせないようにやるように工夫もしますし、無理強いするのがABAだということは大変な勘違いと思います。逆にそういう「ABA(と称するもの)」を見たら、逃げて下さい。また、時折言われるのも「先生は強化子(お菓子)は使わないんですか?」 お菓子を使って子どもを動機づけるというのがABAということでもないんです。できれば使わない方が良いでしょう?私は使うこともありますし、使わないこともあります。
 一番の間違いは、「ABAとはこういうものだ」「ABAがこうあるべき」というようなものがあると考えることです。ABAとは、できるだけ方法や形にとらわれないものなのです。色んな方法を時と場合によって使い分ける当たり前なのです。例えば、見た目が同じ行動を減らすのでも、その行動が起こる理由によって違う方法をとらなければ失敗に終わると考えるのがABAなのです。同様に見た目が同じ行動を増やすのでも、環境や歴史などを考慮してやり方を変えることが当然なのです。時には「ええ?」と驚くような方法になることもあるかもしれませんが、大部分は比較的常識的というか常識の枠組みを大きく超えない当たり前の教え方になると思います。「自閉症」などと言った大きな問題を前にすると、当たり前のことを忘れることってありません?それを気づかせるのが私たちABAの専門家の仕事だと思います。

2013年8月11日日曜日

基軸となる社交性のスキル:Perspective Taking 相手を見て自分の行動を変える

 昨日仕事で九州に行ってきました。8月10日は帰省ラッシュのピークらしいですね。新幹線の指定席の予約?3日前に予約に行ったら、やっぱりすでに始発から一日全部満席でしたね。名古屋駅ではやっぱり混雑していて、自由席の所はすでの長蛇の列。「メーテレ」と書かれたテレビカメラを持ったテレビ局の人たちも帰省ラッシュの撮影しています。列の短い所ないかな。フラフラ歩いていると、1号車の一番先の乗り場は誰も並んでいません。忘れられていたんですね。一番先頭に並べました。これなら座れるかも。私の後ろにはすぐに人が並び始めました。ラッキー!笑顔満々で並んでいたら、子どもが走って来て列の後ろにつきました。しかし驚いたのは、その後からやって来た親が、列に並んだ子どもを叱って列の最前列(私の横)に並ばせたのです。しかし手話で話しているため、その親子の話の内容はイマイチ良く分からないので、横入りしようとしているのかただ次の列車を待とうとしているのか、よくわからない。「え?」っと思ったままぼんやりしていると、新幹線が到着すると(横入りしたとは知らない)乗務員が子どもを優しく私の前に入れてしまい、結局その家族は横入りしたために一番に空いた席に座れて、私以降の人は座れませんでした。どういうことだ?子どもが列に並ぶという適切な行動をしていたのに、常識のない親がそれをわざわざ自分の都合の良いように(社会の常識を無視するように)教えてしまっている。それを注意すれば良いのに、黙って見てしまっている私も私ですよね。意気地がない。やはり手話で話している人に話が通じないんじゃないかみたいな(というか、手話のできない私は相手の言っていることはわからない)戸惑いはありますが、でも、常識のないのは誰かが注意しなければいけない・・・え?私が注意する?え・・・私はちょっと・・・(←全くだらしがない)。結局岡山ぐらいから座れましたね。座っているお客さんから、「私次降りるからねえ。」なんて言ってもらったりして、まあ世の中良い人もいれば、そうでない人もいるということですね。
 まあ社交性のスキルというのは、本当に難しい。はっきり言って世の中には私も含めて社交性のスキルのない人があふれている。この家族なんか、周りの人の視線なんか完全に無視しているということですよね。最近テレビでは「空気読む」とか、周りの人のちょっとした表情を読んで対応を変えろというような感じのことも言われますが、本当に読める人ってのは、逆に少数派かもしれないですね。
 自閉症の療育では、こういった周りの人の様子を見ながら、それに合わせて対応を変えるということを少しずつ教えて行きます。高機能の自閉症やアスペルガーだったりすると、ちゃんとお話もできるのに、基本的に話し相手や遊び相手の様子が全然見えていないというか、相手が嫌そうな顔をしていても、平気で自分の好きな話を続けたり、自分の好きな物を他の人にも押し付けてしまったりすることが多いです。人は自分と違う考えを持っているから、相手が今どんな気分になっているのかを観察し配慮しながら交流するという人間関係の基本がわからないのでしょうね。英語では、perspective taking なんて言いますが、思い遣りというか、相手の立場に立って考えるということです。これは分からないのですから、怒っても仕方のないことです。しかし、丁寧に時間をかけて教えることはできます。意外でしょ。教えられます。
 まず始めには相手を「見る(観察する)」ということ。次には、相手の反応は何を意味しているのか「査定する(判断・弁別する)」、最後にはそれに対応した「場面に適切な行動をとる」という3つの行動すべてが出来ないと行けません。良くある失敗例は、最後の「場面に適切な行動」だけを教えようとすると、観察して判断する力のない子どもはどうしても次に同じ場面に出くわしても、対処することはできないということです。さて、例を出してみましょう。会話の最中に子どもが自分の好きな話を長々とし始めたとします。セラピストは、イライラとしたような表情をします。子どもは全然気づかずに話を続けるとします。この場合、上記の3つの行動のどれかができないということです。どれができないのかは、分からないので以下のような方法で教えて行きます。
 この場面で、セラピストはテストとして、わざと大きなため息をつきます。気づきますかね?それでもダメな場合は、「あーあ、退屈。」とか言っても良いです。こういった大げさなジェスチャーに気づいて「どうしたの?」等と言ってくれる場合は、自閉の程度がそれ程悪くない場合です。だいたい自閉症の子どもは大きなため息をつかれても、無視して話し続けます。話し相手の行動が見えていないか、見えていてもそれが悪いと思っていないか、悪いと思っていてもどうしたら良いのか分からないかの、いずれかです。そのまま話し続けている子どもには、「今先生何してた?どんな顔してた?」等と言って顔やジェスチャーを見るようにプロンプトします。「ため息ついてる」と言えた場合は、見えていることは見えている訳です。それがどういう意味か、どう対処するのか分からないということです。見えていない場合は、もう一度やって見せて、「ため息ついてるね。」等とそれに名前を与えてやります。次にお同じような場面で、大げさなジェスチャー、動作をやってみると良いでしょう。気づいて、それに名前を付けることができたら、褒めてやりましょう。
 そして次の段階(査定・弁別する)に入ります。ため息をついていることが分かったら、「じゃあ、先生今どう思ってるの?」と聞きます。これは、相手の行動から、相手の気持ちや状態を想像することを教えるのです。自閉症の子どもは、相手が例えば震えていても、「寒い」と分からなかったり、膝を抱えていても「膝が痛い」と分からなかったりする場合があるので、その場合はそこから教えなければいけません。ため息をついているということは、「退屈している」「何か嫌なことがあった」ということです。それが言えるでしょうか?言えなければ、「ため息をついたら、先生はつまらないんだよ。」と教えてあげます。そして、「楽しくないことしたい?相手がつまらなかったら、次には話を聞いてもらえなくなるかもしれないよ。何とかして、相手を楽しくしようね。」と問題があるサインなのだということを教えます。そういうことをしっかり自分から言えるようになれば、「そう、よくわかったね。先生がため息をついていたから、退屈していたね。気づいてくれたね。」と褒めてあげるようにします。次に同じような機会を作って、自発的に答えられるか試してみましょう。
 そして最後です(その場に適切な行動を取る)。「相手がため息をつく程退屈している」という問題(social conflictなんて言います)を解決しなければ行けません。どうするのか?私は大抵、「両方が楽しくなければいけないよ。」という大きなルールを教えて行きます。相手が退屈していも行けないし、自分が楽しくなくても行けない。それを解決するには、「ごめんね。退屈したね。後で○○ちゃんの話も聞いてあげるから、これだけ言わせて。すぐに済ませるから。」でも良いし。「あ、他の話が良かった?」と話題を変えても良い。話を相手の好きな話題に絡めていくということでも良い訳です。相手の行動を無視するのは行けないし、自分が全然楽しめないのでも困るのです。それをできるような解決策の例を見本としてみせてあげて、練習させてやるのです。自分から、解決策の例をあげて問題を解決しようとした時に、しっかり「話を変えてくれて良かった。先生はこんな話がしたかったんだ!」と具体的に褒めてあげましょう。
 そして、この3つがいずれもできた時点で、ちょっとため息をついたぐらいで、気がついて、しかもその解決策を呈示できるようになり、「良かった。気づいてくれたから、退屈せずにお話が楽しかった。」などと、褒めてあげられるようになります。相手の様子を見て、それに対処していくというのは社交性の根幹にあたるようなことなので、非常に大切なスキルです。ただしちょっと、注意点があります。解決策の中で「話をすぐに済ませる」と言いましたが、簡潔に話すということが難しい子もいますので、注意して下さい。これも教えられますが、それなりに習得に時間がかかります。相手の興味を知り、それを利用しながら自分の話を面白くさせるというのも、またかなり高次のレベルの別のスキルとして教えなければ行けないかもしれません。自分の話を諦めて、別の話題にするということが難しい子もいます。というか、こういう場合が多いですかね。これもやはり時間はかかりますが教えられます。だから人間関係って難しいんですね。こういうことの教え方ももっと聞きたかったら、リクエストして下さいね。

2013年7月30日火曜日

ABA:フリーオペラントの理論

 今週末は「日本行動分析学会」年次大会に出席してきました。前回も報告した通り、まだ「ぎっくり腰」になって長くないので、無理しない程度に参加しました。やはり長いこと座っているのが辛いので、長時間の参加は避けましたが、色々と収穫もありましたね。シンポジウムでは「『罰なき社会』を再考する」で発表されていた方たちの中でも、特にドッグトレーナーの山本央子先生のキャラが個人的には面白かったですね。話し出したら止まらないタイプというか、時間が過ぎてもガンガン喋りまくってましたね。話題が話題だけに熱くなるのも当然ですけどね。しかし首輪やショックを使った罰ベースのトレーニングが日本では頻繁に使われているとは、全然知りませんでした。ペットを人間以上に溺愛している人が多い世の中、ちょっと驚きですよね。罰を使わずに有効なトレーニングを行えるという情報自体がもっと広まらなければいけませんね。でもまあ子どもの教育現場でも同じと言えば同じですかね。残念ながら、なかなか体罰がなくならない。杉山尚子先生がスキナーの過去の発表等を踏まえて、理論的な分析・説明も発表なさいましたが、「罰という行動をなくすにはどうするのか」、ということを社会の行動として分析・理解し、変えて行こうとする試みも大切だと思います。
 さて理論も大切だなあと思った時点で、ここ何回かディスクリートトライアル、NET(自然環境でのトレーニング)、自発トレーニングの話をしてきましたが、今回はちょっと掘り下げて理論について話します。これまでディスクリートトライアルは、「指示に従う」行動を教えることに有効であり、色々な行動を教えるプログラムが、教える側のタイミングで調節出来る(学側の行動を待たなくても良い)という点で非常に使い易い方法だということを話しました。研究の流れとしてそれに反して出てきたのが、PRTなどを含むNET(自然環境で行うトレーニング)ということも言いました。しかし、行動分析の理論的に言えば反対は「フリーオペラント」と言います。実はPRTやNETという新しい名前を使わなくても、ディスクリートとは反対になる理論的な方法があるので、これを少し紹介します。なぜここで理論を紹介するかと言うと、私たちは科学として色々な行動の理解をして、今後も色々な療育に有効な方法を開発し、評価していくわけです。理論という大きな背骨・木で言えば幹に当たるものを無視して開発していくと、今後大きく成長してく大木にはなりづらいのです。私は理論をしっかり理解するからこそ、より安定した芯の通った療育の方法を人々に紹介出来ると思います。
 まずディスクリートは、明らかに始まりの合図があり、学ぶ側の行動が一回起これば、その試行(トライアル)は行動が強化されて(または強化以外の結果があって)終了となります。次の試行はまで(次の合図があるまで)は、少しなり長時間なりの待ち時間があります。これに比較して、フリーオペラントは、行動を何回しても良いのです。ですから、決められた時間内に何回行動が起こったかなどを見る時に使います。日常生活の例で言えば、お母さんが「これ片付けて」と指示して、子どもが片付けて、お母さんが「ありがとう。良く出来たね。」と褒めたとします。片付ける物が一つで、指示も一回な場合は、合図が一回、行動も一回、次にある合図までは時間があるということですから(何度も物を出して片付けたとしても、褒められない)、ディスクリートトライアルということになります。これに比較して、バスケットのゴールにシュートして遊ぶ場合、何度シュートしても良いでしょう?一回一回合図もない。ですから、「フリーオペラント」ということになります。遊びは基本的にフリーオペラントになることが多いです。実際にはこの中間というか両方の属性を含んでいる(ハイブリット)というのがあります。パズルをやる場合等です。「ピースをいくつもはめられる」(一つ一つの行動の間に、待ち時間はなく何度もできる)という点では、フリーオペラントなのですが、パズルの一つ一つは、(バスケットのボールと違って)同じピースを何度も外してはめてするわけではなく、一つのピースは一回しかいれない、こういう面では、1つ1つはディスクリートなわけです。
 親のコンサルをする際に私が良く使う例は、ディスクリートが受験のような感じです。お勉強は必要ですよね。ただ、お勉強だけしていて大学に入ると、入った後で「じゃあ自分は何をしたいのか?」迷ってしまいます。「自分の本当にしたいこと」は誰かに与えられた課題をこなす(ディスクリート)ではなくて、フリーオペラントだったりハイブリットだったりするわけです。フリーオペラントで一番わかりやすいのが、お笑い芸人の漫才などですね。決められた時間内に、何回面白いことを言ってお客を笑わせても良い。お客が「これして」ということに答えるのではなく、自分から面白い話をどんどんして良い場面です。もちろん強化子はお客の笑い。最近の番組では漫才形式ではなく、ゲストのトークや企画を紹介して、それに対して面白いコメントをするのが芸人の仕事になっているので、これはフリーオペラントではなくて、「ハイブリット」になりますね。旅館の女将さんなんかも「ハイブリット」系です。お客の様子をみながら、さっとお茶をだしたり、近所の良い観光場所を紹介したり、相手に合わせるような会話をしたり、色んな行動をしてお客を快適にさせるわけです。お客の笑顔が強化子になります。
 ということは、人生はこのディスクリートとフリーオペラント、その混合(ハイブリット)からできているので、両方の教育が必要であるということです。ディスクリートトライアルだけでは、人生に必要なことは教えられない、フリーオペラントだけでも教えられないということです。PRTの教科書なんかを読むと、ディスクリートに対抗するような感じで書かれていますが、これは間違いだと思います。対抗するのではなく、両方使うことが望ましいということです。人間やっぱり人から認められるのが嬉しいんですよ・・・(幸せの追求のような話になってきましたね)。自閉症の子どもに「どうやって人から承認をえられるのか」「人を喜ばせるのか」ということを教えるとすれば、指示に従うことを教えることも大切ですし(ディスクリート)、相手を観察しながら相手に合わせたことをすること(ハイブリット)を教えることも大切ですし、自分から面白いことをして相手を笑わせること(フリーオペラント)を教えることも大切です。ちなみに自分から面白いことをして自分で適切な遊びをするということ(フリーオペラント)も大切ですよね。「パズルやりなさい」って言われてやるものではなく、自分からやりたいこと(しかも他から見てあまり変じゃない、迷惑をかけないもの)を教えて行くのも大切です。

2013年7月21日日曜日

療育で孤独に戦う親

 突然ですが、ぎっくり腰になってしまいました。それも何となく徐々に痛くなったので、きっかけというようなきっかけもなく、原因が指定しづらい。まあ生徒を持ち上げてクルクルして」回したりしていたからかなあ。合気道や水泳もするから、運動不足ではないはず。変わったハキングシューズもはいてみたから、そのせいかも。いずれにせよ腰に負担をかけると痛い。くしゃみをしても痛い。次第に何もしていなくても重くてつらくなってきたので、ヤバいかなと思って接骨院に行って治療をしてもらいました。
 氷で冷やした後に、電気の治療をしてもらっていたら急激な痛みが襲って来て、人前なのに「痛、痛、痛!」と言っていたら後で院長先生が針を打ちにきてくれましたね。別に治療をしてもらったから痛くなったのではないのだろうけれど、ちょっと怖くなりますよね。治療後は何もしていなくてもかなり痛くなり、朝方までほぼ眠れませんでした。次の日は何もしていないのに、痛み止めを飲んでいるのに、それでも痛い。何もできない。ということで滅多に休まないお仕事もお休みして療養しました。生徒の皆さん、すみません。でも痛みは人に伝えづらいですね。今日はやっと痛み止めなしでも良くなってきましてブログなんか書いていますがが、それでも長い事椅子に座っていると痛いので、寝ている事が多いですね。寝てるばかりで何も出来ないのは本当に退屈です。動いてるときは、「ああ、疲れた、一日寝ていたい。」と思っているのに。 
 でも、ぎっくり腰くらいのメジャーな障害になると、別に大した治療法がある訳ではないのだけれど、色んな情報がすぐにインターネットで手に入りますね。しかも、どれを見ても大体同じ事が書いてあるので、情報を疑う余地もあまりない。接骨院もすぐに行きたい所がみつかるし、他の人からも理解が得られる。これはありがたい。ここ最近やっとメジャーになってきた自閉症とは違いますね。本当にインターネットでも情報が掴みづらいと思ったからこそ、私もウェブやこのブログを作りました。出来るだけ科学的で、最新の情報を提供するようには心がけていますが、私の情報が的確であるか、自分の子どもに合うかどうか、結局の所は親が判断しなければなりません。だからこそ、誰に話しても理解を得られない、だから話せないという悩みは本当に辛いと思います。
 お母さん方の話を聞くと、 「うちの両親はあまり療育に理解がなくて」「うちの旦那はあまり協力的ではなくて」というのは良く聞きます。逆におばあちゃんが、「うちの娘は(息子は)あまり療育に感心がなくて」ということもありますが、やはり周囲から理解を得られないお母さん達は本当に孤独を感じられるのではないでしょうか?「何かしなくては!」という焦りと、「これ(私の療育のやり方)で大丈夫なのだろうか?」という不安に加えて、「何でそんなことしているの?本当に効果あるの?」みたいな周りからの冷めた視線が重なり合うと、ストレスも倍増でしょう。
 第三者的な視線から言えば、私のようなコンサルタントに1回何万円という高額な代金を払うということも、理解しづらい点かもしれませんよね。医者に行けばこれよりはもっとたくさんの金額を払っているはずなのですが、保険という社会制度があることで、個人の負担が軽減されています(実際には保険料などで、どこかで支払っているんですけどね)。「療育」という事自体が国としてしっかり認識されていないので、それをこれまで障害や教育に関与してこなかった人たちに理解してもらうというのは、所詮無理な話かもしれません。私的にはこういった「チャレンジ」があるからこそ面白い分野でもあるのですが、親からすれば、「あと10年後だったら、もっと国の制度も充実していただろうに・・・。」「人からも理解されやすかっただろうに。」と思う事もしばしばでしょう。でもね、10年前はもっとひどかったのよ、これが。
 それにしても人が真剣に「やりたい」「やっている」と言う事に対して、「そんなことまでして」とか、「どうせダメなんじゃないの?」という視線、姿勢を向ける人はちょっと腹が立ちますよね。もちろん療育等の大きな決断をする際には、「慎重に色んなことを考慮する」「情報の中から事実と体験談を分けて考える」ということは大切ですが、それと「人の心を折る」(私は腰が折れちゃってるけど)ような事を言うのは、別の話ですよね。「やらない」ということで「大事な時期を逃してしまう」ということもあるのですから、「やらない」という選択肢のリスクもあるわけです。人はみんな決断でミスをするものなんです。あまり決断を恐れず、やってみて駄目なら直せば良いのです。やってみなければそれが間違いかも分からないので、それよりは先へ進んでいるはず。「私は間違っているのでは?」とあまり自分を追いつめないように気をつけて、「間違ってたら直せば良い」というくらいで頑張りましょう。

2013年7月10日水曜日

ABA: 自発訓練(プロの秘密)

 突然暑くなりましたね。名古屋では38度とからしいですよね。私は名古屋を出てから20年くらい経って久しぶりの夏なのですが、20年前とは明らかに気候が違いますね。昔38度なんてなかったですから。この温度にこの湿度。不快極まりない。昼間は絶対にクーラーから出られませんね。でも夜も辛い。昨夜クーラーにタイマーをつけて寝てたんですが、当然ですがタイマーが切れると暑さで目覚めました。ちょっと窓を開けて寝ようと思って電気をつけて、窓を開けて、電気を切ってベッドまで戻った時点で、これだけの運動で汗だくになりました。それも全力疾走でもしてたんじゃないかと思うぐらいの汗です。結局またクーラーをつけて寝ました。夜の暑さを甘く見てましたね。テレビを見ていたら、原発の問題でコメンテーターが、「夏も打ち水をしたりすることで涼しくしてクーラーを控えめにしたり、電力の省エネしよう」なんて言ってましたが、日本に住んでいた事があるんだろうか、この人は。年寄りがクーラーを省エネして倒れたら責任取れるんだろうか。「がまんする」ということを当たり前のように人に期待するのはちょっとどうかと思います。私は我慢しません。人にも期待しません。
 さて前回までディスクリートトライアル(DTT)と、自然環境でのトレーニング(NET)について話しましたが、今回私がやっている事についてちょっと紹介します。私は自発訓練と呼んでいます。ディスクリートトライアルをしていくと、子どもに「指示に従う」ということを上手く教えられます。ただし、子どもが自分から動機を持って自分で行動するという自発性は教えられません。ディスクリートだと訓練は指示を出した時から始まるので、当たり前と言えば当たり前ですよね。自発訓練は逆に、いつ何をするのか子どもが決定する状態を作るので、指示を出さない訳です。「ええ?」と思いませんか?子どもが正しい行動をするのを待っていては、教えづらい。結局子どもが何か悪い行動をしてから、「こうしなさい。」とプロンプトで矯正する感じになってしまいやすい。NETを唱える教科書等ではここの具体的な例がないので、どうしたら良いのか分からない。NETの一つであるマンドトレーニングなんかをすると、自発性をかなり教えられます。でも、通常のマンドトレーニングだけでは、「ちょうだい」とか、物や活動を要求することだけに終止してしまいがちですよね。「どうやったら人を喜ばせるか」「相手の注目・承認が得たい」という要求が難しいんです。
 私はどういう時に人を見てなければいけないのか、どうすれば自分から働きかけて人から承認を得られるのか、教えます。例えばお菓子を食べている時、「ああ、○○ちゃん、お菓子食べてる。先生もお腹すいた。」指示に従うことに慣れている子どもは、ここで変な顔して私を見ます。「お菓子せんせいにもちょうだい。」と言えばくれるのに、「お腹すいた。」では動けないのです。例えば子どもがミニカーを選ぶとします。私は、「ああ、先生つまんない。一緒に遊びたいなあ。」と言います。これでダメなら、手まで出してみます。手にミニカーをくれたら、「やったー。先生もミニカーがあって一緒に遊べる。うれしい。」と言います。ここで大切なのは、セラピーする側が待つこと。指示を出している訳ではないので、急いで子どもがミニカーを先生に与える事が目的ではないのです。自分で観察して気づくというところが目的です。子どもによっては完全無視なので、ちょっと顔の前に手を出してみたり、ちょっと手を取って顔を見てもう一回言ったり、3分でも5分でも良いから待ちます。「先生話しているから、答えてくれると嬉しいな。」なんて言ったりもします。大体の子どもは、「質問に答える」はできても、「話しかけに反応する」はできないことが多いので、最初はすっごい時間がかかります。これで良いんです。その場では時間がかかっても、次の日は気づいてくれたり、3ヶ月後に突然「ああ、そういうことか。」と分かるようになったり、色々ですが、「相手を観察する。」「相手の話しかけに反応する。」ということを、指示に従うのではなく自発で行う事を教えなければいけません。
 私が持つ大きな目標としては、子どもが「物を要求する」のではなく、人との関わりをいかに要求するかに焦点を当てます。自閉症の子って基本的に人との関わりに無関心っぽいですよね。そういうことももちろん多々ありますが、私は意外とそうとも限らないと思ってます。明らかなのは、彼らはどうやったら相手を楽しませるか、指示に従う以外に、どうやったら相手から「すごいねえ。」と言ってもらえるのか知らない。それも教える事ができるんです。子どもがおやつを食べ終わったら、「先生はきれいなテーブルが好き。」「おやつ食べ終わったら、どうすれば良い?」何て言います。「片付けなさい」とは言わない。やらなければ行けない事を教えてしまってはいけないんです。時間がかかっても、自分で見つけ出すことを教えれば、「ああ、すごい!テーブルきれいにしてくれた。」と喜んであげる。常に一緒にいる人を意識して、どうすれば喜ばせられるのかを見つける作業を教えてあげるのです。順番を待つゲームなんかも良いですよね。だれの順番か自分で相手を見ていないとわからない。自分から勝手に最初に番を取るのではなく、じゃんけんで決める。こういう行動をターゲットにする訳です。遊びを完了させることが目的ではないので、焦らずに時間をかけて「相手を気遣える」ことをヒントを出したり、褒めたりしながら教えていきます。
 もっと言えば、「相手を気遣う」だけでなく、「相手から面白いと思われる行動」も教えます。突然わざと転んだり、おかしな行動を取ったり、「ボケ」というか「おふざけ」的な行動も見本で見せます。「お母さん」と呼ばなくたって、お母さんの「気を引く」「笑わせる」ことはいくらでも出来るけれど、教えなければわからない。分からないと、気を引きたい時にはお母さんを叩いたりしてしまう問題行動にもつながります。だって、「お母さん」って呼ぶと「何?」って返事されて、結局次に何したら良いか分からなくなってしまうでしょう?でも、「おふざけ」をすれば笑って見てくれるだけで、「何?」って聞き返されないから、子どもからすると良いんです。
 ちなみに実際に研究を出して「これがディスクリートやNETよりも有効である」と証明したものではありません。NETの一部でしょうね。あくまで、これまでに研究されていることで足らない部分について、私の臨床の経験や、うまいセラピストさんを観察して得られたものです。次はもうちょっと突っ込んで理論分析も話しますね。

2013年7月9日火曜日

ニュース

私からのニュースです。
1)10月18日(金)に愛知県稲沢市で公開講座行います。発達障がい児を持つ親の会「スモールステップ」さん主催で、ABAの基本と応用について、10時から12時までの2時間で参加費用は千円です。もう少ししたら詳しい内容をwww.kojitakeshima.comの方でお知らせします。
2)福岡方面まで足を伸ばして、月1回出張相談おこないます。新幹線沿線の方で興味のある方はkoji.takeshima@yahoo.comまでご連絡ください。

2013年7月7日日曜日

ABA:自然環境で行われるトレーニング(NET)

 昨日名古屋では一人というマスターソムリエのいるお店に行ってきました。彼一人でシェフ、給仕、ソムリエのすべてをやってしまう(彼だけで経営)ので、すごく小さくて、しかし良心的で(安くはないが、意外に高価なワインではない)、隠れ家的な小さなお店ですね。私はカリフォルニアのワインは結構飲んでいましたが、フランスのワインはあまり知らないので色々勉強させてもらいました。私の所もセラピー、親教育から、プログラムの作成、教材の準備、おやつの用意、掃除まですべて私一人でやっているので、全然違う商売なのですが何となく親しみを感じられます。ということで今回、ワインを飲みながら書いているので、少しいらないことを無意味に話しても勘弁して頂きたい・・・相変わらずいい訳ばかりしているという気もする。
 前回ディスクリートトライアルについて書きました。これを批判する感じで生まれたのが自然環境でのトレーニング(Natural Environmental Training: NET)で、今回はこれについて話します。基本的にディスクリートのようにテーブルに子どもを座らせて勉強させるような形態の療育ではなく、自然な生活の流れや遊びの中で色々なスキルを教えていくものです。インシデンタルティーチング(Incidental Teaching)とか、ミリューティーチング(Milieu Teaching)とか、PRTとか、VB(Verbal Behavior:言語行動)のマンドトレーニングとか、ABAの中の色々な方法を含んだ療育方法への総称ということです。今あげたそれぞれの療育法がABAの中で研究されて、効果をあげている。どっかで言いませんでしたっけ?ABAって行動の原理を応用させて人間の生活を改善するものすべてが含まれるので、それに基づいて色々な療育方法が生まれるんです。もちろん、今挙げた療育法だけではありません。ABAは一つの療育方法と考えておられる方が多いのですが、それは間違いですので、気をつけて下さい。
 中でも一番良く知られている例はPRT(Pivotal Response Training、ピー、アール、ティーと呼ばれる)というものですが、アメリカでは有名なテレビ番組でも紹介されました。「スーパーナニー」ってご存知です?「ナニー」と言うのは子どもの面倒を見る人のことを言うのですが、一般の家庭で近所の高校生をバイトで雇って子どものちょっとだけ面倒を見てもらうというレベルの「ナニー」もいれば、お金持ちの家庭で英才教育の一環として雇う教育の専門家である場合もあります。このテレビ番組は、いわゆる問題児というか、家庭内で親の言う事を全然聞かずにどうしようもない子どもがいる家庭に、この番組で有名になった「スーパー(超)ナニー」がやってきて親と子どもを教育し、問題を解決するというものです。紹介された子どもが自閉症の診断を受けていたケースがあって、PRTの創始者の一人であるケーゲル(Koegel)博士が呼ばれ、両親にアドバイスすることで問題解決の一環を担っていました。まあテレビですからちょっと上手く行き過ぎな感じもありましたが、ABAが一般の人たちへ紹介されたという点では良かったですね。
 PRTというのはPivotal Response Training(基軸となる行動のトレーニング)という意味ですが、基軸となる行動というのは、木で言えば枝葉となるものではなく幹になるというか、必要不可欠な重要な行動ということです。「自発的に交流を求める行動」や、「自分で自分の行動を制御すること」、「色々な情報に(同時に)反応出来るこおと」などが「基軸となる行動」として選ばれています。ディスクリートのように小さな行動を一つずつすべて教えるのではなく、少ない数のもっと大きな(塊の)重要な行動を教えることで、他へも良い影響がある(他の行動も学ぶ)というのが理念です。子どもの「動機」を大切にすることが大前提となるため、教える際も「子どもに選択させる」「できる課題とできない課題を混ぜる」「色々な課題を混ぜる」などというような方法が取られます。私のウェブやブログを読まれた方は気づかれたかもしれませんが、「基軸となる」行動を教える(すべての行動を教えずに、鍵となる行動を教える事で一石二鳥を計る)という考えは私も大賛成です。子どもの「動機」も大切にしたいです。
 他の療育の紹介は省きますが、自然環境でのトレーニングというには色々な方法があります。自然の流れの中で教えるという以外「これだ」という共通点はないのですが、「子どもの興味を追う」という方法が多いようです。どういう事かというと、大人が好きな時に教えるのではなく、子どもが欲しい物を見つけた時に教育が始まるということです。例えばインシデンタルティーチングでは、子どもが棚の上にあるオモチャが欲しい時、棚の上にあるオモチャを動機付けとして使って(強化子として)教えたい行動を教えます。VB(言語行動)のマンドトレーニングでは、「ちょうだい」などの要求(マンド)の仕方を教えるでしょう。(私はVBというか言語行動についてはかなり専門的に勉強して来ているので、また次の機会にもうちょっと教えますね。)
 利点としては、やっぱり子どもが自分から何か欲しいと思った物や活動を使うのですから、子どもの乗り具合が違いますよね。ただし、すぐに想像出来るかもしれませんが、子どもが興味のある物が見つかるまで待っていたら、教えられる機会が限られてきますよね。ミリュートレーニングの中では、欲しい物が見つかった時に、それを使って5回連続で教育の試行を繰り返すなんてのもあります。さらに、子どもが教育のきっかけを自ら作るということですから、療育側が(こう教えようという)準備や計画がしにくい。理念は高いのですが、そう簡単に行かない訳です。研究でも、一つ一つの行動を教えた研究は出ていても、ロバース博士が出したような「2年間、週に40時間やった結果こうなった」というような、プログラム全般の結果の研究が出ていないので、ディスクリートトライアルと比べてこれの方が良いとは言えない、というかむしろ、ディスクリートの方がその効果が明らかに証明されていると言って良いでしょう。
 ちなみに私はNETとディスクリートと両方を合わせて半々ぐらいで使います。というか、最初のうちはディスクリートを全面に使い、徐々にNETに移行して行くのが理想ですね。最初は簡単な行動を少しずつ教えてベースを作った後に、徐々にその教えた事を般化させて、自然に行動ができるようにしていきます(というか、せっかく教えても使えなければ意味がない)。NETの、子どもの「やる気」を大切にするという理想は本当に「その通り」と共感しますが、実践はそう簡単にもいきません。ディスクリートと比べて、専門性が求められるということもありますが、「どうやって子どもの興味を使いつつ、こちらの教えたい事を教えられるのか?」「実際には具体的にどうするの?」という具体性に欠ける印象です。教科書というかガイドブックというようなものもあるのですが、実際にどうするのか具体例があまり少なくて、私的にはもどかしい気持ちになります。私の場合は療育の経験から「こうしたら良い」というやり方を私なりに見つけ出してその埋め合わせをしています。
 では次のブログでは私のしていることを書きますね。

2013年6月30日日曜日

ABA:ディスクリートトライアル

 私が教室に使っている愛知県清須市の西枇杷島町というのは、昔ながらの建物を残している所なんです。私の教室も「古民家」を少しだけ改造したものと何度もどこかに書いたような気もしますが、古いといっても築30−40年というレベルではなく、実際にどれくらいの年数が経っているのかは知りませんが、少なくともその倍は、もしかしたら3倍経っているような、アンティークというか骨董品と呼べるまさに「古い」建物なんです。使えば使う程「味」がにじみ出て来て、愛着が湧いて来ます。教室の奥の方は、はっきり言って半壊状態なので使えないのですが、台所とかお風呂とかがあって、さらに奥は外に出て壊れかけた「離れ」もあるんです。昔の人は細く長い敷地に住んでいたんですね。そして実は2階もあるんです。これまでは大家さんの物が詰まっていたのですが、「ちょっと泊まったりしたい」などとわがままなを言ってみると、「使って良いよん。」(大家さんはこんなおバカな返事はしませんでしたが)ということなので、使えるように掃除させていただきました。もう何十年も使ってなかったんでしょうね。埃がすごかったのですが、一日で見違える程きれいになりました。窓枠とかが木枠なんです。雨戸も木でできてる。もちろん畳です。円卓がある。三味線がある。ダイヤル式(プッシュじゃなく回すやつ)の電話がある。小槌を持った恵比寿さん(小槌を持った神様って、大黒天だっけ?)がいる。ステキ。窓の低さが良いんですよ。畳に正座すると、ちょうど腰よりちょっと上くらいの高さに窓があるので外が楽に眺められる。風がよく通って気持ちいい。何となく外を眺めながら小説家にでもになった気持ちになる・・・(実際にはあまりにゆったりとリラックスするために筆ははかどらないため、妄想のみ)。
  さて本題に入って、「伝統的」と言えば、ABAのディスクリートトライアルもかなり広まって来て、こういわれても良いぐらいになって来たのではないでしょうか?ちなみに翻訳すると「不連続試行」なんて言われますが、日本語にして意味が分かり易くなっていないと思うので私は使いません。基本は1、2、3です。1、短く明確な指示を与える(行動のきっかけがある)。2、子どもがそれに従う(子どもの行動がある)。3、褒める(子どもにとって良い事がある)(子どもの行動を強化するような結果がある)。これを実際に何百回、何千回も繰り返す事で、本当に小さな行動を徐々に教えて、積み上げていく方法です。人を変えるにはどうします?心を変えます?行動を変えます?心の中を変えるのではなく、直接行動を教えて人を変えるというABA的な発想から生まれた方法の一つです。この方法が広まったのは、セラピーのやり方が明確に示されていてかなり分かり易く、セラピーをする方も比較的容易にそのスキルを学ぶ事ができるからでしょう。もちろん名人芸になるぐらい上手にこなすには簡単とも言えないです。実際に上手い人がやると、子どもの乗り具合(スキルの伸び具合)が断然違います。
 このディスクリートトライアルは、実はABAには昔からあった方法の一つなのですが、80年代後半にUCLAのロバース博士が自閉症児の療育に使って大きな成果を上げた研究を出した事で、一躍有名になりました。といっても、アメリカでも広まったのは最初の発表から10年以上後ですね。ロバース博士の研究では週に40時間(一日8時間)という膨大な時間で行われました。机に子どもを座らせて、単純な指示に従うことを教えたり、模倣する事を教えたり、マッチングすること(同じ物を二つ一緒に合わせる)を教えたり、膨大な時間をかけて、言って見ればありとあらゆる言葉や遊びの基礎の行動を教えていった訳です。自閉症と診断された2−3才児に2年ほどそれを続けて、半数に近い子どもが健常発達の子どもと同じクラスで勉強できるようになったと言いますから、ロバース博士は大変な結果を出しました。最近は週25時間でもかなり有効な結果が出るとの研究が出ているので、40時間までやる人は少なくなりました。アメリカで療育が行われる時は(学校や保険会社などから療育が支払われる際も)、大体週25時間くらいが推薦されるのはこの研究の成果を参考にするためです。私の経験からすれば、1日1時間でもそれなりの効果があるでしょう。
 日本でも最近結構やられている方が多いので驚きました。私の勉強していたウェスタンミシガン大学では、このディスクリートトライアルを実習の授業で教えてもらい、実際に経験出来る。経験のない大学生が療育をやる代わりに、公立の幼稚園に通う3−4才児がABAの療育を無償で受けられるのです。毎学期大体30−40人くらいの大学生が実習を受けます。比較的容易にできると言いましたが、大体どんな学生が来てもある程度のところまでは療育が出来るように成長します。でも、毎学期一人くらいは「何度練習させても、何度説明しても、何度見本を見せても、なかなか上達しない。どうしてもこの人には療育を続けさせられない。」という大学生さんが出ますね。大体私が個別に面接して可哀想だけどセラピーはやらせられないと伝えなければ行けません(一生懸命頑張ろうとする学生だったりすると本当に可哀想)。大学生の教育も大切ですが、やはり子どもの療育も同様に大切なので、下手にやられて子どもを苦しませる訳にはいけませんからね。
 本当に効果のある療育法の一つではあるのですが、あまりに有名になったために、ABAとディスクリートトライアルを同じ物と勘違いされる人が大勢で出ました。ABAというのは、そのディスクリートトライアルというような発想が出た考え方であり色んな方法の入り交じった学問の領域なので、自閉症に限らず色々なことに役立てることができます。また、ABAの中にディスクリートトライアル以外にも自閉症に有効な方法はたくさんあります。座って色々と勉強をさせるロバース博士の方法に対して、その方法では行動が般化しない(勉強中はできても他の場面ではできない)、というような批判がでました。私の経験からすれば、ディスクリートで教えた事をすぐに般化させてしまう子どももいれば、そうでなくてかなり色々と工夫しなければ般化できない子どももいます。その流れから生まれたもので、自然環境のトレーニング(Natural Environmental Training: NET)というのがあります。これには、PRT (Pivotal Response Training、基軸となる行動のトレーニング)などが含まれますが、子どもの自発性を尊重するタイプのABAで、詳しくはまた次の機会にでも触れます。
  ロバース博士の行われた療法がディスクリートトライアルと考えられて一般的には問題がないのですが、正確に言うと少しずれる場合があります。元々のディスクリートという言葉の発生から考えれば、明確な始まりと終わりがある事からこういう名前になっています。ですから、1)はっきりした行動へのきっかけがあって、2)行動があって、3)行動への結果がある、というこの3つがあればディスクリートトライアルになります。例えばご飯を食べ終わったあと、お母さんが「じゃあ片付けて(行動のきっかけ)」と指示し、子どもが片付けをして(行動)、「あら、良く片付け出来たね(行動への強化)。」と褒めるという一連のやり取りをしたとします。自然な環境でスキルが教えられていますよね。般化もしやすいでしょう。それは机で座って行われた訳ではないけれど、実はディスクリートトライアルなのです。
 ディスクリートトライアルが良いか悪いかで言えば、かなり効果的だと言えるでしょう。ただし、これですべての問題は解決しません。万能薬でも、やってもダメだということでもありません。セラピーの良い道具と考えた方が良いでしょう。なので、「道具は使いよう」と割り切って、使える所はしっかりと使い、これで難しい所は無理にこれだけで解決させようとしないことが大切です。

2013年6月21日金曜日

ABA消去:パート2(問題解決)

 実はもう2月程前になりますが、うちのひまわり教室がネズミの被害にあったことがあるんです。「古民家を使っている」という事実を甘く見ていたんでしょうね。よく考えれば、色々ネズミの通れる穴みたいなものもあるでしょう。油断していました。というか、ゴキブリはあってもネズミが家に入って来るというような経験がないので、ちょっとと言うか、かなりショックでした。子どものおやつに出したり、強化子に使ったりするようなお菓子が用意してあったんです。小さな個別包装になっているようなやつです。半分開けたダンボール箱の中に入れて、棚の一番高い所に置いておいたんです。週末明けで教室に帰ってお菓子の箱を見ると、ダンボール箱のなかにいっぱい小動物の足跡、抜け毛、排泄物が落ちていていました。今想像しただけでもぞっとしますね。よく見るとお菓子の個別包装の袋に丸く穴があいて、その中からお菓子を出して食べていたようなんです。まさかプラスチック包装やアルミニウムっぽい包装も食い破るなんて、その時点で私の想像をはるかに超えています。「こ、これは・・・。ネズミってもしかして病気をもたらす?ネズミが触った所を消毒しないと、教室の子どもが二次感染するかも?」それから3時間くらいかけて掃除、消毒、掃除の繰り返しでしたね。こういう時一人の商売って、嫌ですね。誰にも話せずに黙々と掃除なんて、「くやしー。」としか言いようがない。
 少ししてさらに思いついたのが、「も、もしかして・・・。またやって来るかもしれない?」ホームセンターへダッシュしましたね。ネズミ駆除関係商品コーナー直行です。ネズミの嫌いな臭いのするものや、ねずみ取りのマットも。でも、これはゴキブリホイホイのでかいバージョンみたいな粘着版です。「でもこれって、ネズミが捕れたらどうするの(見たくねー)?しかも、ネズミが一匹捕れたからと言って、一匹見たら何十匹もいるんじゃないの(それって、ゴキブリ?恐怖の大量ネズミの想像図)?」そう考えたら、駆除するよりも食べ物をなくす方法にしました。取りあえず食べられそうなものは、固いタッパーウェア系の入れ物に入れる。食べ物とそのにおいさえしなければ、ネズミが来る意味がない。来ても長居しない。結局の所それから何ヶ月かネズミは帰って来ていません。でも月曜日になって教室を見ると、ちょっと怖くなります。時々古民家の土壁から落ちた土を床に見つけると、「まさか!」とねずみ取りと食べ物の場所をチェックしに行きます。もうトラウマになってる。
 すっかり前置きが長くなりましたが、ネズミが来るというのは強化子となる食べ物があるから。それをなくすことによってネズミの訪れる行動を下げるというのを、消去と言います。前にも問題行動のところで話しましたね。実はこの消去、行動を下げるという他に、もう一つの効果があるんです。行動のバリエーションを増やすんです。これまで行動の後にもらえていた強化子が、突然貰えなくなる。こうなると、その行動を逆に何度も繰り返したり、徐々に行動が少なくなる事は比較的良く知られている。しかし、これまで取らなかった行動というか、新しい行動が増えることも観察されているんです。自動販売機でお金を入れてボタンをおしてもジュースが出て来ないとすると、「馬鹿野郎ー」って言ったり、自動販売機を揺すったりしますよね(新しい行動)。そういうイメージです。
 療育ではこれを逆に利用するのが望ましい。例えば、子どもが何か欲しいとして、親が「ちょうだい」と言って要求する事を教えます。でも、次には手伝って欲しい時にも、「ちょうだい」と言ってしまう。「ちょうだいじゃなくて、手伝って、でしょ。」などとプロンプトします。子どもは「手伝って」とその時言ってくれるとします。そうすると次に手伝って欲しい時はどうなるか?次にも、「ちょうだい」って言ってしまうんです。「ちょうだい」→(親が何か言ってくれる)→(それを繰り返す)の一連の動作が強化されてしまうからです。私が療育をやる場合は、「ちょうだい」と言って手伝って欲しいものを手渡されたら、「 どうぞ」と言ってそれの物を返します。言葉通りの結果をあげるのです。正しいことを言えば、すぐに手伝ってもらえるが、そうでない限りは強化子がすぐに来ない。すぐに「手伝って」などと答えをあげてはいけないのです。これは専門的に言うと、「分化強化」とも言いますが、正しい行動を強化して正しくない行動を消去させる方法です。消去が入っているので、色んな行動が出ます。それが良いのです。その中の一つは正しい行動かもしれません。逆に問題行動もでるかもしれません。でも、この「上手く言わなければ、欲しいものがもらえない」という状況がなければ(すぐに答えを与えてしまっていては)、正しい行動を自発する事は教えられません。
 わたしの所に療育に来ると、かなり「じらせる」ことが多いのです。初めて来る子どもは「今までお母さんでは通じていたコミュニケーションが通じない」ということですから、びっくりでしょうね。いつもすぐに答えを貰っている子どもは、すぐ分かりますね。自発が少ない。欲しいものが貰えなくても、何も言わずに待っている。そしてしばらくするとイライラする。でも、このイライラが必要なんです。ここで、正しい答えを自分から見つけ出す傾向を育てないと。自分から問題解決する傾向を育てる必要がある。問題がある時どうします?「こうすれば良い?ああすれば?」って色々試してみないと、ただ待っていても解決しないじゃないですか。お金を入れても出て来ない自動販売機があるとして、揺すったり「バカヤロー」って言っても出て来ないかもしれないけれど、何もしないよりはジュースが貰える可能性が高いですよね。色々トライしてみる傾向を育てることが重要になります。

療育家として残したいもの

 実は先日私の10年来の友人が亡くなりました。ほぼ同年代でしたので、初めに知らせを聞いたときはそんな事があるとは全然想像さえしていなかったので、文字通り「は?」と聞き返してしまいました。その後少し慌てました。
 友人はまだABAなどという言葉は知られておらず、自閉症への教育なんてあまり話されていなかった10年以上も前から療育の仕事を立ち上げられた方で、立ち上げに際して私がいたウェスタンミシガン大学へしばらく来て療育を見てもらったり、アメリカで一緒にワークショップに参加して私が通訳したりしました。「大きな会社にするつもりはないが、療育する側が生活を成り立たせるだけのしっかりとした収入のある、質の高い信頼のある会社に仕上げたい。」と言っていたのを覚えています。日本に帰って来て会いに行くたびに、会社が徐々にうまい方向へいっているのが目に見えました。
 通夜に行って友人のお母さんから初めて急性のがんで亡くなられた事を知りました。入院して10日という事です。あまりに事が早かったので、連絡する機会もなかったのでしょう。友人等の若い人の葬儀には初めて参加するので 、戸惑いました。親に相談して喪服や数珠等は用意できたけれど、すっかりハンカチを忘れていて、涙をうまく拭えませんでした。通夜では療育を受けた自閉症の子ども達も大きくなっていて、「生き返って来てね。」などと話しかけていました。帰りの電車で、一緒に葬儀に参加したであろう親御さん達の話が聞くともなく耳に入ってきました。「学校でのトラブルで本当に困って相談してみたんだけど、わざわざ学校にまで行ってくれたんだよ。先生と色々と一緒に話してくれて、一発で問題が解決したよ。あの人はカリスマ性もあったし。」本当に、生徒さん達やお母さん達の人生に大きな影響を与えていたのですね。こういった伝説は語り継がれていくでしょう。
 帰りの新幹線で私と友人に対してビールを一本ずつ買いました(結局私が2本飲んだという事ですね)。最後にもう一回でも一緒に飲めたら・・・。仏壇に食べ物を添えるのは、こういうことなんだなあと思いました。自分のためにするんだなあ、と。人生いつ何があるか分からないですね。小さくても良いから、質の高い、信頼のある会社。お母さん達からその療育の成果が語り継がれるような仕事。実際ところは本当に一握りの生徒さんや親御さんを満足させられれば、十分ですね。友人から学ぶ事が本当に多かったと思います。初心を忘れないように、友人の分まで真剣な療育をするつもりで、これからも頑張らなければ行けませんね。

2013年6月15日土曜日

考えるという言語行動

 毎年5月の終わりには、アメリカで行動分析学会があるんです。5月の終わりはどこで開催されても気持ちの良い季節ですね。今回は入国でいじめられました。「職業は?」と言われていつもこまります。「自閉症の子どもを教えています。」なんて言うんですけど、世の中には自閉症って知らない人もいますよね。 「では教員か?」と言われると教員免許持っていないのに教員だとは言えない。「サイコロジスト(心理士)か?」と言われると心理士の免許も取らなかったのでそうとも言えない。かと言ってBCBA(認定行動分析家)なんて言っても、自閉症療育の関係意外はまだ一般には知られていないので、一から説明する気にもなれない。にこやかに、「発達障害の子どもを教えています。」といっているのに、「職業を聞いてるんだ職業を!」「そこへ立て。」「お前は俺の質問をしっかり聞いていないんだ!」「そんな微笑みなんていらないんだ!」「お前がちゃんと答えないから、後で待っている人の時間を取るんだ!」なんて次から次へと言われました。お前がちゃんと聞いていないんじゃないか。明らかに自分の力関係を誇示したいタイプなんでしょうね。入国早々いきなりこれじゃあねえ。ああ、アメリカに帰って来たなあ。丁寧に扱ってもらえる日本が遠い・・・。
 今年はポスター発表しました。今回はアメリカにいた時にした、ちょっとした基礎実験を発表しました。私は臨床にいるので基礎実験なんてしたことないんですが、今回は人の言語行動についての興味を楽しんで追求してみました。私は人の言語行動って、見えない部分が多いと思うんです。つまり頭の中で考えるということです。私は一日中色々な事を考えていますし、そうすることで得になることが多い(何らかの強化がされている)から考えているんだと思います。思考というものも、一つの行動として捉えることができると思うんです。ただ、見えないからあまり研究されていない(笑)。行動主義というと、見える物に焦点を置くような印象があると思うんですが、見えないことを無視せず、むしろ積極的に分析する人たちをラディカルな行動分析家と言います。今回の学会でも、そういった見えない部分に目を当てた研究の発表がいくつかありました。
 認知心理学の人なんかは、人の認知を行動の説明として利用します。例えば、自己認識が「私は太っている」だから、実際には痩せていても拒食をしてしまう。拒食という行動を認識で説明した訳です。でも、実際には認識が行動の原因なのかという因果関係は、そう簡単には証明できない。私は行動分析的な視点から、頭の中のプロセスがどうやって行動に結びつくのか、その因果関係を証明したかったのです。
 今回やったのは、「単純な質問に答える」ということにも、頭の中の色んな行動があるからこそ「答えられる」ということを実験で示しました。実験では、10枚の写真を見せて(トマト、机、Tシャツ等)、20秒待って、その後、「では見せた写真を思い出せるだけ思い出してください。」と聞く訳です。過去に見た物を言うという単純なことですが、 見た写真の名前を繰り返したりといった頭の中のプロセス(行動)がないと、この質問には答えられない(思い出せない)とにらんだ訳です。まあ、頭の中での行動は見えないので、頭の中での思考を口に出して語ってもらうようにしました。結果は?色んなことを頭の中で考えていましたね。実は頭の中で写真の名前を繰り返すのではなく、食べ物とか洋服とか種類に分類したり、写真を使って物語を作ったり、色んなことをしていました。そして、この頭の中での行動を完全に起こらないように、計算問題等をやらせると、質問に答えられなくなるのです。さらに言えば、こういった頭のなかの行動がまだ自然に起こらない5才の子どもに、分類していく作業(大人が頭の中でやっている作業)をやらせると、大人のようにたくさん覚えていられるようになるんです。
 どうやって単純な質問に答えられるのか、過去のことを思い出せるのか?その答えは、(頭の中の)「色んな行動を通して」です。知らず知らずのうちに、質問に答えるという課題を(問題を)解決するために言語行動が頭の中で起こっているのです。逆に言えば、言語の遅れのある子どもには(言語を自然に学びにくい)、こういった頭の中の行動を教えて行かないと、将来大人のような行動ができないということもあるかもしれません。私が、「独り言は大切な基軸になる行動だ」というのは、こういうことです。頭の中での行動を言語を教える際にはしっかりと捉える事が必要だと思います。
 世の中にはまだABAで解決できないことがたくさんあります。しかしこういう単純な実験等から、行動の科学は先へ進んでいくのです。

2013年6月6日木曜日

時間をかけて培うスキル

 しばらくぶりにブログ再開です。2週間以上ですね。アメリカであったABAの学会に参加していたのと、私事ですが心痛いことがありました。この事に関してはまた他の機会にブログで紹介させて頂きますね。これからは、またちょこちょこずつ情報を紹介して行きますので、よろしくお願いします。
 昨日奥田健次先生がまた朝のテレビで紹介されていましたね。今回は15分くらいかけて、しっかりと奥田先生のことを追われていて良かったと思います。「ABAって一体なんなんでしょう?」というような問いかけと回答がされていて、本当にこういった機会で徐々にABAのことが紹介されるようになると嬉しいです。ABAは自閉症関係以外一般的な知名度はまだあまりないですから、奥田先生のような先生の出られるテレビをきっかけに、一般的な興味が増えると良いなあ。ちなみに奥田先生とはアメリカのABAの学会では飲み会の席でご一緒させて頂きました。実はそこで昨日のテレビ放映についてを教えて頂いたんです。気がついたら以前一緒にテレビに出ておられた杉山尚子先生も一緒に席にいて、有名どころに囲まれておりました。特に杉山先生とは毎年学会でお世話になっていますが、お二人とも別にテレビに出られたからと言って変わりなく、「だからどうなんだ?」という感じでしたかね。でも何となくテレビって、ウキウキしません?ちょびっとウキウキ(ちょびウキ?)でテンション上がったのか、調子に乗ってお二人の証拠写真まで撮ってしまい、よく考えれば迷惑でしたね・・・。
 テレビではどうしても華やかなことやドラマチックなことがが取り上げられる傾向があるので、何となくすべての問題が速やかに解決されてしまうような印象になってしまいますよね。テレビで紹介されていたお母さんは、「トイレトレーニングの相談をして他の専門家の方は様子を見ましょうというような事ばかり言われるのに、奥田先生は具体的なアドバイスを言ってくれて、そのアドバイスに従ったらすぐに問題が解決した。こんな事を言ってくれた専門家の方は一人もいなかった。」ということを言っていました。まさにドラマチックな解決です。「問題がある」→「専門家に相談する」→「専門家がアドバイスする」→「アドバイスに従う」→「問題が解決する」というようなイメージでしょうか。まあ基本的にはそういうことなのかもしれません。私もアドバイスをして、同じ内容のことを言われた事もありました。このようにアドバイスだけで問題が解決に向かうことも結構あると言えばあります。
 でも、そう単純にも行かない事の方が実際にはたくさんあるんです。特に私のやっているような療育では「専門家がアドバイスする」→「アドバイスに従う」という部分にかなり時間がかかる場合があります。どういう事ことかと言うと、口でアドバイスされたり説明されて頭では納得できるけれど、実際には簡単に出来るようにならない、時間をかけて体で身に付けてもらわなければ行けない、という事がたくさんあります。例えばテレビで紹介されていた例を取ると、「ただ親が褒めたつもりではいけない。子どもがしっかり褒められたと感じられなければいけない。」というような言われていました。 子どもが指示に従ってくれないというのは、必ずと言っていい程、この「褒める」ということがしっかり出来ていないことが多いのです。しかも、「しっかりと褒められてないです」って言われて嬉しい人なんていませんよね。むしろ「しっかりと褒めている」と勘違いしていることが多いのです。「褒める」ということ一つをとっても、普段から一日中色々な場面で使うような生活習慣の一部と言えるかもしれません。簡単には変えられないんです。自分がどんな褒め方してるか、どれだけの頻度褒めているか、本当に適切な行動の後に褒められているか、実際の所第三者から見てもらってしっかりフィードバックというか指摘してもらわなければ、自覚しにくいんですよ。しかも、一回指摘してもらったところで簡単に改善出来ることではないんですよ。毎日のようにやってみて、指摘を何度も受けたり見本を何度も見せてもらって練習することで徐々に改善して行くタイプのものなんです。自分でやるとどうしても、「私の褒め方って良いの?」「やってみたけど、これって不自然じゃないの?」「やってみたけど別に効果が感じられない」ということが色々あると思うんです。そこで適切なガイダンスができるのが専門家の役目になります。
 人間というものは即席の解決策が欲しいものです。実を言うと、私もその一人です。でも、生活習慣を変えるというような「じっくり型」のも結構面白いんですよ。ゆっくりと親と子どもの関係が改善して行く。問題解決に対してアドバイスしていくというよりは、「育む」、「培う」というイメージです。私は療育でむしろこの方を大切にして行きたいんです。例えば書道を習いに行って、上手な先生から上手なアドバイスされるのも良いですが、それで突然書道が上手くなったりしないでしょ?毎日やって徐々に上手くなるものです。療育の仕方も徐々に上手くなるタイプのものなんです。私の所に相談に来て頂くお客さんも、月に一回だけとか、週に一回だけと言うのを希望される方も多いのですが、実は本当の良い所、じっくり育てる部分は残念ながら味わえないのかなと思います。私が「出来るだけたくさん来て欲しい」というのはこういう事です。

2013年5月11日土曜日

基軸となる行動2:独り言という言語行動

 先日愛知県の稲沢市で引きこもり・・・あれ?・・・立てこもりか、の事件がありましたよね。うちの姉の住んでいるところの隣だったみたいで、警察が包囲していて家に帰れないってメールがありました。怖いですね。最近本当に近所でも色んな事件が起こる。いつ巻き込まれるかわからない。おかげで姉は漫画喫茶で義兄と一緒に暇つぶし。結構楽しんでたみたいね。容疑者が掴まった時は、「根性無しが!明日会社休めんだろう!」ってメールが来てました。そうか、会社休む所まで予定されてたんだ・・・。
 最近はメールなどで簡単に自分の目の前で起こっている事、経験した事を人と共有できます。Twitterなんかは「つぶやき」なんて訳されているけれど、本当に独り言を人に聞いてもらうような感じで、目の前に起こった事や頭に思い浮かんだ事をそのまま言葉にして、インターネットで人と共有できます。インターネットはさておき、この「つびやき」もしくは「独り言」をすると言う行動も、人間が生活して行く上で重要な行動であると思います。独り言ってしない人いませんよね。しかも、独り言を使って自分の行動をコントロールしていることが多いと思います。独り言が完全に無言だったりすると、生活に支障が出て来るでしょう。例えば、電話番号を教えてもらったら、 「080、33の・・・」というように、頭の中で(もしくは声に出して)紙に書いたり携帯に入力したりするまで繰り返すことで、番号を「忘れない」ようにします。例えば路上に駐車する時に駐車禁止のサインが出てたら、「あ、駐車禁止だ」と頭の中でつぶやいてから、回避したりすることもあると思います。前回の「Executive Functioning」でも説明しましたが、こういう人の生活と切っても切れない大切な行動を、基軸となる行動と言います。独り言自体が他の色々な行動の基礎になっていると思われます。
 ABA行動分析で言えば、スキナーの言語行動ですでに語られていることです。スキナーは「聞き手」「話し手」というような分け方をしますが、自分自身が「話し手」となり、それと同時に「聞き手」ともなるのです。人から与えられた指示を繰り返すことで従い易くなったり、状況をナレーションすることでその状況に対して反応しやすくなったりする効果があります。しかし実際の所ABA関係ではあまり熱心に研究等されていない行動です。独り言というのは目に見えない行動のため観察しづらいというのも、研究のしにくさの一つです。自分で自分の行動に反応する連鎖反応みたいなものがまさに言語を使う人間の行動の醍醐味だと思うんですが、みなさんどう思われますか?
 自閉症の治療教育においも重要な行動の一つだと私は思います。自分で自分の行動に反応することができると、色々生活の中で役に立つ。例えば、「スプーン3つと台ふきん持って来て」というような長い指示を出された場合や、取りに行く物までの距離が長い場合、出された指示を自分で繰り返すことができないと指示を忘れてしまうので必要不可欠です。初めて行く建物に入った時、「あ、下駄箱がある」と口で言えた方が、「靴を脱いでそこに靴を入れる」という行動が出やすくなるでしょう。実際3−4才の子どもは遊び中見た物を口に出して話すことが観察されており、それは年齢とともに徐々に口に出さずに頭の中で「考える」という行動に変わります。私はお母さん方に、子どもと遊ぶ時には「ナレーション」を入れるということを勧めます。遊びの状況を言わば実況中継のように話す(ナレーションする)ということで、子どもに独り言の使い方の見本を見せます。時には話し始めを言って途中で止め、子どもが続きを言ってくれるかどうかも見ます。こうすることで、徐々に独り言を使う機会を作って行きます。
 さらに話を進めると、独り言を自己プロンプトに組み入れて使うことができます。自分から中々行動してくれない、他の人から手助けされるまで (プロンプトされるまで)待っている子どもって多いじゃないですか。先ほどの例で言うと、初めて行く建物に入る際下駄箱がある場合、「ほら、靴脱いで」という手助けをしてしまうと、「靴脱いで」に反応して靴を脱ぐことになる(将来靴脱いでと言われなければ脱げない)。「あ、下駄箱がある」という手助けをした場合、下駄箱を見て下駄箱に反応して靴を脱ぐことになる(下駄箱を見る事で靴を脱ぐ事を教える)。これを利用して、初めて行く場所に入った際に周りを観察して大まかな事が口に出来るようになると(「あ、靴箱だ」「エレベーターだ」「警備員がいる」など)自分でそういう状況に対処しやすくなる。遊びでもそうです。他の子どもと一緒に積み木で遊んでいるとき、「あ、カナちゃんは家を作ってる」と言う事で、次に続く「トントン、遊びに来たよ。入れて下さい。」とか「僕はじゃあ線路を作ろう」とか、状況に合わせた行動を取りやすくなる。
 ちなみに私が英語を話す時も、独り言って大切です。英語を話す時はだいたい頭でも英語で考えています。常に頭で考えていることで、色々な言葉がでやすい状態になっている。逆に言えば、日本に帰って来てしばらく英語を使わない(日本語で常に考えている)状態になると、突然英語に戻ろうとしても比較的スムーズに言葉が出て来るまでに時間がかかります。これは想像でしかありませんが、その状況にあった適切な独り言ができる子どもと比較すると、頭の中で無言だったり、関係のない言葉を繰り返している子どもだったりする場合には言語の発達のスピードが遅れてしまうのではないでしょうか?

2013年4月29日月曜日

基軸となる行動を教える:Executive Functioning

 また東京に行ってきました。今回のメインの目的は東京にあるABA療育の会社へのスーパビジョン兼コンサルテーションの提供です。ABAで療育を頑張っているという会社があるというだけでも私的にはかなり嬉しいんですが、さらに私のような所にも相談に呼んでくださって、本当にありがたいです。他にもABAの大学の先生と面会していただく機会を作って頂いたり、アメリカ時代からの友人と夢について語り合ったり、色々収穫の多い旅でした。
 懲りずに何度も上京していますが、方向音痴には東京内での移動が大変なんですビジネスに慣れている方は、新しい場所も結構スムーズに移動出来るんでしょうか?私は昔から待ち合わせとかダメなんですよ。皆で待ち合わせをして私だけ全然勘違いした所に行ってたりして、皆と会えずに迷惑をかけた事もあります。そう言えば、この間東京で友人のカナコさんと一緒に電車乗った時は、つい話し込んで駅を乗り越しました。(一緒に乗り過ごしたカナコさんも相当やばいですね。)誰かに「ほら、次でしょ」って言ってもらわないと(専門用語ではプロンプトという)、降りるべき駅でおりられなかったりします。よく細かい所で失敗している。今回の上京で5回人と待ち合わせだったり、直接出向いたりしたんですが、よくよく考えてみればスムーズに行けた場所は1つくらいですね。道順をすっごい丁寧に書いてもらってあっても、なぜか迷う。うーん。最近は車のナビと同様、歩きでもスマートフォンを使って地図で示してくれますよね。やっぱり時代はナビだよ、ナビ。それでもやっぱり迷ったりして・・・。
  ナビを使わない場合、新しい場所に行く時には色々と計画というか道順を調べて、それに従って行くじゃないですか。だいたい頭の中で「このホームを降りて、1番線に向かって、快速の時刻を調べて」とか色々な計画を細かく立ててから(もしくは立てながら)歩い行って、その計画を実行して行く。こういうのって、Executive Functionなんて言います。日本語では何て言うんでしょう?実行機能?まあ名前はどうであれ、頭の中で行動の順序を決めてそれを実行することです。レシピ本を使って新しい料理を作る時とかも、ピーマンを出して、野菜を先に切ってから肉を切ってとか、ある程度の順序立てを自分で組み立てて実行するので、同じ事です。
 自閉症の場合やADHDだったりすると、こういう計画立ててそれに従って動くということが難しい場合が多いのです。何か思いつくと突然計画なしに立ち上がって動こうとするため、場当たり的な突拍子もない行動になってしまう。計画って、大人だけではなく子どもでも結構使うんです。例えば、4−6才くらいからごっこ遊びをだいたい始めますが、「俺は悪者の役、お前は○○マン」、「私はこっちを作って、あなたはそっち。」みたいな感じで役割分担するじゃないですか。それもかなりの計画立てと実行する力がないとできない。ボードゲームなんかはこの計画性がないとできない。あまりに行き当たりばったりする子は、年齢が上がるにつれてやっぱり友達の輪に入れなくなってくる。遊びだけではなく、朝の学校に行く準備とか、学校での生活でも徐々に色々な事が問題になって来る。
 ですから、私はこの「計画し行動する」ということを、基軸となる行動の一つとして教えて行きます。「基軸となる」と言いましたが、行動の中でも重要で(この部分は必要で)、木で言えば幹とか大枝の部分で、末葉ではない行動ということですね。私の経験からすればこの「計画し行動する」という行動も練習で改善することができます。遊びを使ってその中で練習させのが、一番手っ取り早く効果的です。例えば遊びを決めたら、役割分担を決めて順序立てるというか、誰が最初に何を持って来て、次に何を持ってくるのか決めます。最初はホワイトボードや紙に書きだしたりもします。例えば皆で「赤ずきんちゃん」の劇をするとします。赤ずきんちゃんとなる人形、オオカミとなる人形、おばあさんになる人形、ドアやバスケットなど用意する物を書き出します。それをどこの場所から持ってくるのか順序立てて書き出して、その順序に従うようにします。これはまあ第1段階というところでしょうか?こういった丁寧な計画立てと、「計画に従ったことで、いち早く準備を済ませて、遊びがスムーズに行った」ということを体験させると良いのです。もちろん口でも説明してあげるも良いです。何度も練習するうちに、書き出さなくても指等で「1、赤ずきん、2、オオカミ、3、おばあちゃん」というように数えながら計画を立てて、その計画を実行して行く癖を付けさせて、ボード無しでも頭で考えて、しかもスムーズに行えるように練習させていきます。
 それにつけ加えれば、「人に説明してからその場を離れる」という行動も重要になってきます。人と一緒に遊んでいる時に、突然ダッシュでいなくなったら変でしょう?でも、自閉症とかADHDとかだと考える前に体が動くというか、全然人に説明せずに行動してしまうので周りを混乱させてしまう。そう言えば、英語があんまり話せなくて、"Excuse me"が口から出て来なくて、会話の途中で突然トイレに走り出した日本人学生もいました。アメリカ人から、「何だったんだ?」って思われていましたね。遊びに戻れば、「あ、ちょっと赤ずきんちゃんを忘れたから取って来る」とか、言わせる(説明する)ように癖づけさせると、スムーズな会話や遊びに役立ちます。

2013年4月20日土曜日

受け身から自発へ

 合気道を始めてから2ヶ月くらい経ちました。完全に初心者で、しかもおじさんになってから始める人もあまり多くないでしょう。まだ受け身とかもあまりうまくできません。前受け身ってわかりますかね、前方回転するやつです。でんぐり返し最近した事ある人います?ああゆう感じなんですが、でも微妙にちょっと違う(らしい)。と言うか、回った時点で自分の体がどうなっているのかまで、わからなくない?最初はやり過ぎて(と言っても20回くらいかな)くらくらして、顔色悪くなりましたよ。フィギュアスケートの人が回る時見る方向を決めておくって言うじゃないですか。そういう感じで、回転してもすぐに(投げられた)相手に視点を集中させることで、目が回ることを防げるらしい。私には無理かな。後ろ受け身ってのもあって、後ろに倒れた後に回転しちゃったりもできるのですが、そっちはさらに難しい。何度やっても普通の後ろのでんぐり返しみたいになって、それではダメらしい。
 最近やっとちょっとだけ「投げ稽古」というのをやらしてもらえるようになりました。(こういう名前がついているかどうかは定かではない。)先生に、「投げて下さい」ってお願いして、何度も何度も投げてもらうんです。有段者がやると、受け身の人の体がきれいに空を舞う感じで、空中でくるりと回転して「バーン」と畳に投げつけられている。美しすぎる。私がやる場合、投げる先生の方も「こいつ本当に投げたら怪我をする」というのが分かってるから、かなり慎重にやってくれるんですよ。ですから見た目には、ただ「誘導者付きでんぐり返し」の練習をしている感じ。それでも何となく武道をやっている実感ができて、投げられるのが段々快感になってくるんですよ。「も、もっと投げて下さい・・・」とまでは言っていないが、ちょっとMな感じ。でも先輩方と話をしてると、皆投げられるの好きなんですよ。あれだけ美しく舞えれば違うでしょう。それは投げられたいでしょう。わかる、わかる。昨日も自分からお願いして投げられて、ちょっと肩が痛い。というのはやはり受け身が上手く取れていないせい。
 受け身と言えば、自閉症の子は自分から能動的に人との関わりを始めるというのが難しい。合気道の「受け身」とは違う意味ですね。最近読者から「むっちゃ強引に自閉症につなげる」と言われるが・・・ま、いっか。自閉症の子のは基本的に受け身に人から関わってくれるまで待つというか、たとえどんなに困っていても、自分から能動的には人に働きかけるという事はまず選択肢に入っていない。自閉症でない言語の遅れのある子どもは、言葉が出来ないなりに、近寄って来て語りかけようとしたり、指差したり、それなりに自分で伝えようという意思が伝わります。自閉症の場合は、視線も合わせないので、コミュニケーションしようという意図がないという印象です。重度の子どもは、欲しい物があってもただ泣くだけなので、相手からすると何に困っているか想像するしかない。親の視点からすると、子どものかんしゃくを防ぐために、親の方が子どもの欲しい物を先読みして与えてしまったり、子どもに合わせる事を学んでしまう。向こうから働きかけてくれないというのは普通の人間関係ではありえないことですから、「どうして良いのかわからない」というのが当然だと思います。
 療育をする場合は、「要求する」という事をまず教えますね。要求することを教えることで、自分の欲しい物・ことを伝えられる。さらに言えば、「何か欲しいの?」と親から働きかけてもらえなかったとしても、何か欲しければ(嫌な事がある時は)自分から働きかける姿勢を付け加えられれば素晴らしい。というのも、話せるけれど自分からは言えない自閉症の子ってよくいるんです。学校で課題が自分だけできなくても、「先生に質問する」「隣の子どもに聞く」ということができない。どんなに言葉が話せても、自発のない子どもは損です。親等の知っている人の間ではそれなりに合わせてもらっているために問題がないけれど、学校などの気を使ってもらえない場面ではうまく機能することができなくなってしまいます。
 PECS (Picture Exchange Communication System、ペックス)って知ってます?発語があまりない子どもに、言葉の代わりに絵カードを使って好きな物を伝える、コミュニケーションの手段の一つです。その第2段階で教えることは、自発的に本人から働きかけることです。例えばお菓子を持っている大人が、「欲しいの?」などと関わりかけずに、わざと横を向いて子どもの方を見ていない。そういう状況を意図的に作って、子どもが大人の注意を自発的に引いてから(手の中に絵カードを入れたり、肩をたたいたりして)要求することも教えます。意地悪ではないんです。毎日ちょこちょこで良いですから、わざと気づいていないふりをして(いじめているような気もしますが)、子どもが自発的に働きかけなければ行けない状態を作ってあげてください。自発的に行動することを覚えることは、本当に本人のためになります。絵カードを使わない子どもにもこの第2段階だけは教えたいぐらい。ペックスの第2段階にはこれ以外にも色々臨床上ためになることが多く盛り込まれています。
 自発性のない、受け身傾向のある子どもに色々なことを教えて行くと、やはり教える側がその過程でう使う手助けに頼ってしまいやすい。将来的に自分から使えるようになるために手助けするのだけれど、結果として手助けされるまで受け身で待つようになってしまうこともある。例えば、人に会って挨拶することを教えるとします。何を言うべきか知らないのですから、「今日は。」と見本を見せるでしょう。しかし受け身系の子どもは、いつまでたっても自分から言わずに、「今日は、って言った?」と聞かれるまで待っている。手を洗ってても、「次は何するの?」って言われなければ、蛇口をひねったままぼーっとしてしまう。
 突然手助けを止めてしまうと行動自体がなくなってしまうので、手助けを徐々に減らしていく事が必要です。色々な方法が使えますが、基本は手助けのタイプを徐々に変えて行くことです。教え始めの時は、手取り足取り手助けしなければ行けないこともあるでしょう。そのうち見本を見せるだけとか、指差してみるだけとか、口で指示するだけとか、徐々に手助けのタイプを変えていくのです。それでも自発ができなければ、「ちょい待ち」を使います。 手助けする前に、3秒とか5秒とかちょっとだけ待つのです。この際、口では言わないし、指差したりもしないけれど、じーっと見つめたりして、イメージとしては、「何かしなければいけない」というオーラを出す訳です(オーラが実際にでるわけでないので注意・・・)。子どもがこの大人の視線というか顔だけ見て、「あ、何かしなければならない」と気づくようになってくれば(完全な自発ではないけれど)、まあ上出来です。この方法は実際に研究で効果も証明されている。まあ顔をじーっと見つめる事はあまり関係ないかもしれない(オーラも研究には入っていないので注意)。子どもがこの3−5秒の間に何もしなければ、普通に手助けしてあげて良いのです。これを何度も何度も続けているうちに、子どもが手助けされる前に自分からできるようになる。徐々に待ち時間を長くして行っても良い。この「ちょい待ち」ですが、結構難しいものなんです。親トレーニングをしていると、私が3−5秒待っている間に親がだいたい「○○しなきゃだめでしょ。」とか、指差しながら「ほら」とかって、答えを言ってしまう。「自発して欲しいので、言わないで下さい。」なんて言うんですけれど、癖みたいなもんですから、なかなか直らないのも仕方がない。
 文字が読める子どもには、自分で管理させることを教えることもできる。例えばトランプなんかのゲームのルールを覚える際に、ルールを順番で書き出したメモのような物を渡しておいて、一つ一つ指差しながらゲームを遂行させていく。「ゲームが一つ出来たからどうなんだ」、「ちょっとメモを使うと言うのも自然じゃないんじゃないの?」という方もおられるかもしれませんが、やはり一つでも他の子と一緒にできる遊びがあると、他の子ともつながりができる。一緒に遊んで楽しいという経験を持たせる事ができる。私の教えていた子どもで、これがきっかけで初めて20分間続けて(大人が監督してなくても)他の子と一緒に遊べたんですよ。自然じゃないかもしれないけれど、それがきっかけになって他の子と一緒に遊べたということは、一つの成功体験じゃないでしょうか。それがきっかけとなって、近所の世話好きな女の子の家で「お泊まり」までしてきたなんて言われたのでびっくりしました。
 自分の行動を自分の手助けに使うという流れで言えば、言葉を使うのが一番自然でしょう。言葉が比較的十分に話せる子どもには、独り言を使って自分の行動を手助けする方向に変えて行っても良いでしょう。大人って色々な独り言を普段から言っているじゃないですか(頭の中で言うのは独り言とは言わずに、考えるというかもしれない)。色々行動しながら、頭の中で考えている言葉が自分なりの手助けとなって、適切な行動が出来る。例えば新しい料理を作る時なんか、「ええと、卵3個、それから塩とこしょうをいれて・・・」なんて独り言を言うじゃないですか。頭の中で言う場合もあるし、口に出す場合もあってどちらでも良いですが、これを子どもにもやってもらうようにする。挨拶することを教える際も、人に会ったら、「挨拶して」と言わずに、「ああ、○○君が来たね。人に会った時は・・・」なんてナレーションにするだけで答えは言わない。子どもにもこういうナレーション的な独り言を普段からするように教えたいので、周りの状況を色々言葉にする見本を聞かせてやる。言葉にすることで、「人に会った時は・・・ああ、挨拶。」という答えが自分で見つけ出せる。これはある程度常に言葉を使えている(ある程度の独り言ができる)子どもにしか使えない方法ですね。この方法は実際には自閉症の療育という面では研究されてはいないのですが、理論上有意義だと納得出来るので、私は使いますね。
 受け身の子どもが本当に自発に変わるというのは、実際は難しいことなので、少しずつでも自発の行動が増えて成長していってくれると良いですね。

2013年4月18日木曜日

標的行動を選ぶ

 この間名古屋地方の治療教育の方達と飲み会をしました。いるんですねえ、名古屋にも。治療教育の専門家が。しかもABAやってる人もいるんです。「頑張ってくださーい」、とエールを送りたくなってしまう(「お前が頑張れよ」こうじ心の声)。せっかく地元の人たちが集まっているので、今度から一緒に(できれば定期的に)勉強会を開く事にしました。しかしこれがこの結論に達するまで時間がかかったんですよ。皆なんとなく、「これから定例会のような物を開きたいな」という気持ちはどこかであったんでしょうけれど、でまあ初めて会うような人ばかりですから、何となく口に出しにくかったんでしょうね。結局そういう話になるまでに、夜中の1時半までかかりましたよ。飲み会も最後までいなきゃダメな時もありますね。さすがに深夜を過ぎるとみんな頭働いてなくて、「勉強会何する?」「さあ・・・。」「じゃあ場所だけでも決めて・・・。」というような生産性の低い会話になっていました。まあ東京だけではなく、地方でも色んな活動(飲みじゃなくって、定例会の方ね。まあ飲みでも良いけど。)が活発になってくると日本も面白いですね。将来は色々な地方の人を呼べるような大きな活動も計画出来るようになると良いですね。
 話の中で「やっぱり標的行動を選ぶのが一番大変だ」という事が出ました。標的行動とは、私はターゲットと言いますが、焦点を当てて変えたい行動です。行動分析とかABAは問題がある場合、どんな行動を増やしたり減らしたりすれば、その人(子ども大人でも、ペットでも良い)の持つ問題が解決される方向につながるのか考えます。ちなみに一般の心理では行動を改善させるために、その背景にあるトラウマや認知などの心の問題を解決しようとします。いずれにせよ、問題の中核となること(行動でも心的問題でも)を特定して行くということは時間と労力のかかるものなんです。
 比較的単純な例でいくと(治療が簡単ということではなくて、分析が比較的単純という意味)、場面緘黙(かんもく)症って聞いた事あります?ある場面(家庭など)では喋れる子どもが、ある場面(学校等)では一言も喋れないなどです。当然喋れないことから、色々問題が出てきます。いじめられることもあるかもしれません。それでも喋れないんです。だから問題です。これに認知行動療法を使えば、認知の仕方を変えようとします。例えば、十分な証拠無しで断定したり、悪い面だけを見たり、すべて自分の責任だと考えたりするような考え方を標的にして改善して行きます。サイコダイナミックス(心理力動、精神分析系)は親への敵対心だったり、知らない人への恐怖心だったり、心に潜在している(無意識の)深い部分の問題を見つけ出して解決することに焦点を置きます。これに対して行動分析・ABAでは、不安状態を弛緩(リラックス)させる方法を学んで徐々に色々な場面でリラックスできるようにしたり、会話につながるようなジェスチャーや視線合わせから徐々に、他の場面で喋っている自分をビデオにとって見せたり、ロールプレイ(練習)をしたりして増やしていく(強化する)等の方法を使います。この場合標的行動としては、「弛緩訓練(リラックスする行動)」「会話」「会話につながるような行動」などですよね。これだけ説明しても、何となく行動系は比較的焦点を当てるもの(行動)が簡単にみつかりやすいような印象を受けませんか?緘黙症の場合「話さない」ことが症状なので、「話す」ことを増やして行く。不安があるなら、リラックスさせることで話しやすくする。単刀直入。こういった事から、何となく解決策が簡単に見つけられる(そのために表面的である)セラピーのような勘違いをしてしまいがちです。「スキルを教えるだけ」というような理解の方も多いのではないのでしょうか?
 世の中の色々な問題がそうであれば良いのですが、残念ながら、当たり前と言えば当たり前ですが、問題と行動は必ずしも直結しない。問題解決に出来るだけ直接つながる行動を見つけて標的としたい、その行動の起こる・起こらない理由を分析したいと考えるのが、行動分析/ABAの名前に「分析(analysis)」がついている理由です。行動系の人たちは、意外かもしれませんが標的となる行動を特定するために大きな労力を費やします。簡単な選び方って実はそれ程ないんです。その人に重要な一般的な行動を特定することはそれ程難しくないのかもしれませんが、現実的には行動を変えるのにかかる時間やその人のいる状況、その人の能力の限界なども考慮しなければいけませんから、一番短距離でその人に最も理にかなった標的行動を見つけるのは一苦労で、現実的にはそれが簡単にはできないから途中で方針転換を迫られることもよくあるのです。私の教わった先生も言っていましたが、適切な標的行動を見つけられれば、問題はもう半分解決したようなもんなんです。臨床家は一生かかってそれを学ぶことになりますが、患者さん(生徒さん)それぞれが違うのですから、結局標的行動もそれぞれ違って来てしまうのです。私が自閉症の療育を始める場合よく言うのが、「私が色々教えて試行錯誤する過程を見て頂いて、それを見本に自分で解決策(標的行動とそれに一番あった教え方)を見つけることを学んで下さい。」と申し上げます。コンサルタントの所まで行って、「なんや、解決策ないんかい!」と思われるかもしれませんが、事実だから仕方ない。
 自閉症の場合「言葉が(うまく)話せない」とかといった大きな問題があります。明らかに複雑な言語の行動ですから、3つ4つの行動を増やすのではなく、何百何千の行動を増やさなければ行けないでしょう。これは言わば、「富士山に登る」というような大目標なので、とりあえずそういった大目標につながるような身近な目標から立てることになります。「富士山に登る」であれば、人によっては基礎トレーニングやストレッチから始めなければ行けないでしょう。大きな目標を立てると大変なのは、「進歩しているのやら、していないのやら段々わからなくなってくる」です。登山でもそうでしょう。段々どれぐらい登っているのやらわからなくなる。時には大きな岩や通りにくい場所を避けるために、一度下におりなければ上には向かえない場合もあるでしょう。そう言う時に、やはりコンサルタントのような人が近くにいて、「がんばれー。」「よくやっている。」「そっちの方向で大丈夫。」と言ってくれれば、辛い路も楽になるかもしれません。
 また、問題とその解決の鍵をにぎる行動との関係が簡単には見い出せないこともあります。「言葉が話せない」の場合、人の言葉を真似したり、単純な指示に従ったり、ということを教えるのは誰でも想像がつくでしょう。マッチング(同じ物同士を一緒に合わせる)などは、一見なんの関わりもないようですが、言葉でいう「リンゴ」と物のリンゴが同じ(マッチする)ということを将来的に教えるのですから、言語の基礎になる重要なスキルです。登山で言えば基礎筋肉のトレーニングのようなものでしょうか。子どもによっては、ある程度の基礎を教えれば自分から勝手に学んでいってくれる子もいますが、マッチングのような基礎がなかなか身に付かずに足止めをくらう場合もあります。同じ例を使えば、筋力トレーニングで筋肉があまりにつかないために、なかなか登山出発にいきつかないという感じでしょうか?その場合、いつまでも筋トレのような療育を続けるわけにもいかないでしょう。這ってでも良いから登れるところまで登った方が良いのかもしれません。そういった判断も簡単にはいかないでしょう。
 「友達ができない」というのはもっと難しいですね。富士山じゃなくてエベレストかもしれない。行動の背景にある「友達を作りたい」という動機がついてこなければ、意味がない。全然友達に興味関心のない子どもに、例えば「一緒に遊ぼ!」と誘う行動だけを教えても、一緒に遊びたくないんだから使うわけがない。「一緒に遊ぼって言え!」って言えば言えるようになるかもしれないが、その意味はない。興味関心を変えて行かなければいかない。とりあえず、他の友達と一緒のオモチャを使って同じ場所で遊んでいても良い(人を嫌がらない)ぐらいの目標から始める必要があるかもしれない。「友達を作る」ということには色々な行動があって、さらにそれがなぜ行動一つ一つがなぜ起こるのかまで分析して行かなければいけません。
 これだから、人から「こういう問題があるのですが、行き詰まったんですが、どうすれば良いんですか?」という質問をされると、困ってしまうんです。だって、その人にあった行動を選ばなければいけないから、解決策をいい加減には言えないでしょう?簡単に解決策がホイホイ出てくるコンサルタントもちょっと怪しいかもしれない。

2013年4月13日土曜日

予測のつきやすい生活に変える

 今朝早くから大地震の警報がありましたね。日本に帰って来て携帯があんな音を立てたのは初めてで、寝ている所をたたき起こされた私も「あれ?アメリカとのミーティング忘れていた?でも携帯からの着信音の種類が電話やFaceTime、アラームとも違うし・・・」と、なんだか分からないなりにも尋常でない着信音にちょっとビビりました。でも「大地震だから注意」と言われても、何も出来ないですよね。「えっ?地震?」ってぼんやり頭で思いながら何もすることが思いつかない。一応テレビだけつけてみました。淡路島で最高震度になっていて、前回の阪神淡路島の地震を経験した人はさぞかし怖かったでしょう。私は大地震を経験していないのでこんなにぼんやりしていられますが、過去に経験された人はその時の気持ちを鮮明の思い出したのではないでしょうか。地震ってこう考えると本当に予測がつきづらいだけあって、怖いですよね。台風などはテレビ等で徐々に発達する様子がわかるけれど、地震だけはいつ起こるかわからない。今回のように寝ている時に来る場合もある。
 自閉症の子どもたちって、見ていると本当に「いつ何が起こるかわからない。」生活をしていると思います。というのも、もちろん人によって違いはあるのですが、以前「当たり前の表示に気づく」で紹介したとおり、見なければ行けない所に目が向いていないために、起こりそうな事故を予測できない事が多い。例えばすぐ隣や後ろに人がいる状況だと、人がいると普通気づきますよね。自閉症の子は「人がいる」という認識がないままになってしまうのです。ですから直接ぶつからないにしても、突然その人の前を横切ってしまったり、リュックを背負ったまま振り返ってリュックで相手をこすったり、相手からすれば「おっとっと。何だこの子は。」となるのが当然です。子どもも突然注意されるので、びっくりしてしまう。でも、その人の存在すらに気づいていないのだから、本人からは予測しようがない。
 言葉による説明も基本的に難しいことが多い。もちろん言葉が話せいない子は、これから何が起こるかが口で説明してあげられないため、常にその子にとっては将来何が起こるかわからない状態にあると思います。考えるだけでも不安な生活だ。ただしアスペルガーや高機能の自閉症の子で言葉が話せたとしても、口での説明だけではなかなか意味が汲み取れなかったりします。道順を教えてもらう際に、地図を頭に思い浮かべると分かりやすい場合があるじゃないですか。私は道路や交差点の名前だけを言われても全然覚えられないし、言っている言葉は分かっても道順はわからない。東京に行った時に、「ケイヒン線に乗って・・・」と説明されて「???」という顔をしていたら、「東京の京と横浜の浜で京浜(ケイヒン)」って言われて初めて、「ああ、東京と横浜を結ぶ線か。」と地図を頭に思い浮かべて納得した記憶があります。ちなみに今でも道順を説明されると、「ケイヒン線」のように言葉だけが頭の中をするっと流れて行ってしまって分からないことが多いので、適当に笑って分かったふりをします。だって何度も質問するのは恥ずかしいし、同じ説明を繰り返されても分からないんだから仕方ないですよ。不安なまま適当に他の人をみたりしながら道順をみつける他ないのです。本当にナビやグーグルマップがある時代で良かった。地図のような視覚じゃないとわからないんですよ、言葉で説明されても。アスペの子もそういった状況かなと、想像します。例えば学校で先生が口頭で説明しても、言葉だけが頭を通り過ぎる。普通の子は説明が分からない時も他の子を見ながら真似をしたりして何とか課題を達成できるけれど、他の人を観察できない子は本当に取り残されてしまい、後で先生に一人だけ問題児扱いされてしまう。後から「だから言ったでしょ。」「先生の言う事聞かない。」といつも言われるのは本当につらいでしょう。
 こういった予測のつかない、突然いつ人から叱られるかわからない状況で毎日生活していれば、パニックに陥りやすいとか、人との付き合い自体に不信を感じたりしてしまったり、学習自体を嫌がってしまったりするのも、理解しやすいかもしれません。療育をする際には、なるべく視覚情報を使ったり、同じ事を何度も何度も繰り返したりして予測しやすい状況を作り上げます。そうすると、子どもの雰囲気が変わってきます。例えば、予定表のような物を見せて視覚情報と一緒に毎日予定を確認させるやると、何が起こるのか予測しやすくなって落ち着いてきます。
 人からオモチャやお菓子を奪い取ってしまう子どもに、「取っちゃダメ」って口で説明しても行動は改善されません。毎日予測がつかない状況で生活している子どもにとっては、今食べなければいつ食べられるのか分からないから奪わなければいけない。毎日ちゃんと要求したものが貰えることを経験させてあげる事で、お菓子やオモチャは焦らなくてもちゃんと自分の所に来るという経験が積めれば、急いで奪い取ろうとしたり、棚によじ上ってお菓子を奪取したりする行動が減って、ゆったりと行動するようになります。もちろんお菓子は要求されるといつも与えるというわけにはいかないので、いつ貰えていつ貰えないのか予測しやすい状態を作りあげる(毎日の習慣にする)と良いでしょう。「取っちゃダメ」が理解できたのではなくて、「奪い取る、盗み取る必要がなくなった」という方向性です。言葉が簡単に理解出来る、周りの状況が見えている大人からすればすぐに予測ができる状況でも、その子どもからすれば予測ができない状況になってしまっている場合が多いのです。かんしゃくやパニックの多い子どもは、基本的に生活において「こうなれば、こうなる」「この時間にはこうする」という予測がつかない状況になっている場合が多く、日常生活において予測ができるということの重要さが伺えます。

2013年4月10日水曜日

アメリカ自閉症教育における訴訟、倫理、システム改善

 日本のTPP交渉参加を受けて、その中でもISD条項といって参加する国の企業が(日本や他の参加国の)政府や自治体を訴訟できるようになる制度のことが話題に上がりました。今後TPPに参加するとなれば、海外の企業から日本国家が訴訟され、大変な債務を負うようなことになる可能性が懸念されています。アメリカでは訴訟が多いということを良く耳にするんじゃないでしょうか?訴訟をやりまくっている国なので、経験という意味ではアメリカが有利になるかもしれません。被害者の立場を自分で守るという姿勢自体は良いのですが、あまりに信じられないような訴訟の話も聞きますよね。アメリカの訴訟で一番信じられない話として聞いたのは、マクドナルドでホットコーヒーを注文して、お客さんが自分でそれをこぼして火傷して、マクドナルドを訴えたという話です。自分でホットコーヒー頼んでおいて、自分でこぼしたんだから、火傷するなんて当たり前じゃないの。訴えるか?しかもオカしいのは、これが訴えた側の勝訴に終わって、それからマクドナルドは「熱いので注意」とコーヒーのコップに書かなければいけなくなったとか。まったく常識を外れることにもお金と労力をかけていますが、基本は被害を受けたと思えば恥ずかしがらなくても訴えられるというのが鍵です。訴える側はそうする権利があるのです。しかもこの訴訟がいくつも行われることによって、アメリカでは自分たちの法律や社会のシステムまでも徐々に変えていく感もあります。
 カリフォルニアで働いていた頃は、特に自閉症の教育において生徒の親が学校側を訴える訴訟や訴訟になりそうなケースをよく見かけました。 小さな市であるにも関わらず、その時だけで6件も平行して訴訟を抱えていました。カリフォルニアの学校区(市の職員)として働き始めて3ヶ月もしなかったんじゃない頃ですかね。私の入る前にあった出来事をめぐって学校側が自閉症児(生徒)の親から訴えられており、私も学校の仕事の一環として訴訟に巻き込まれました。
 アメリカのABAで超有名な先生が親側の専門家の証人として呼ばれいて、私の運営するセンターにも(その生徒が過去に在学したということで)見学に来ました。親側の証人ですから、当然相手の弁護士から私のセンターの悪い所を見つけるように指示されて来たのでしょう。私も先生の本を持っており、できればこんな状況じゃない時に先生に会いたかった。その時は主に家庭訪問のサービスをしていたので、先生を私の小さなカローラに乗せて生徒の家まで行きました。私の生徒ですが、泣きましたね。特別問題行動の多くない子を選んだのですが、初めての訪問者を凝視して(自閉症なのに意外に視線合わせ上手いじゃん)1時間以上ほぼ泣き通しでした。当然ながら普段している教育なんかを見せられることもなく、訪問も終わりました。普段泣く事なんて全然なかったから選んだのに・・・。法廷で私のセンターについてどんな報告をされたんでしょうかね?帰りに先生がカローラの中で、「学校で働いているのか?良い経験になるよ。」と言ってくれたのが印象に残っています。
 私も有名ではありませんが博士号まで持っているので、学校側の専門家の証人として呼ばれました。私が訴えられているのではないのは分かりますが、それでも本当に緊張しますよね。証言台ってやつですかね、そこで何と3時間も学校側の弁護士と親側の弁護士から質問を受けました。さすがにぐったりしましたね。弁護士に証言の前に言われた事があります。「あなたは学校側の証人です。もちろんウソをついてはいけませんが、相手の(親側の)弁護士の質問、特に学校に不利になることを答える必要はないのです。答える前にとりあえず3秒待って下さい。学校に不利になる質問には私が意義を唱えますので(”Objection!"ってやつ)時間を下さい。」という内容でした。頭のどこかで私が困ったら「Objection!って言ってくれる!カッコいい!」と思いつつ、一方で、学校に不利になるからって答えなくて良いんだろうか?という疑問が浮かびました。不利とか不利じゃないというんじゃなくて、正しい判決が下されれば良いんじゃないの?(そうは言いませんでしたが。)まあ結局はあまりに緊張していたのでそんな事は頭から飛んでしまい、学校側の弁護士に3秒与えることなくすべての質問に即答してしまい(意外に雄弁でしたね)、後で学校側の弁護士に叱られました。言っちゃダメって言われても事実だから仕方ないよ。だからアメリカでは、弁護士は倫理観のない職業の一位に選ばれているんだ!と思いましたね。
 ちなみに弁護士はその訴訟のために毎日夜遅くまで働いているようでしたが、彼らは時給で働いています。働いた時間はすべて100%支払われるそうです。それを考えたらこの件だけでも凄い値段をかせいでいましたよ。まあ弁護士が悪い人たちって訳でもないんですけどね。良い人もたくさんいます。
 こういった訴訟を通じて、親側の声というのが本当に学校側に届くのです。訴訟の結果を通じてどれぐらいの教育を学校側が提供しなければ行けないのかの相場というか標準が定まってきます。その相場に不満があれば、さらに法律を変えようかという話も出て来る訳です。ちなみにこの件で学校側を訴えていた親は、後にカリフォルニアで健康保険を使ってABAを含む自閉症の療育が支払われるという法律が成立した際に、積極的に運動に参加して大きく貢献していました。アメリカではこうやって一歩一歩、親が声を出して社会のシステムを変えて行くんだなあと実感いたしました。
 さらにちなみにですが、 ミシガン州の特殊教育では最近10年で訴訟は10件以内だと言う事です。ええ?カリフォルニアではあんなに小さな市でも一度に6件訴訟があったのに・・・。州によってそんなに違うんですね。確かにミシガンでは自閉症早期療育の導入はかなり遅れましたが、最近やっと健康保険の導入が認められました。やはり親があまり声を上げない所では、システムの改善も遅れるんでしょうね。

2013年4月4日木曜日

Joint Attention: シグナルが強化子となる

 私の住んでいる名古屋の北区から出てちょっと車で行ったところになんですが、安くて新鮮なスーパーがあるんです。両親につれられて行ったのですが、値段が安いから「安物」を売っているかと思えば、客の数が多いので品物の回転が速いためか鮮度もかなり良い。良い商売してますね。ただ、客の数が多いんですよ。スーパーの大きさというか、中の通路の幅なんかは普通のスーパーかそれよりやや大きい程度なんですが、客が5倍いると考えてください。凄い人で満員電車状態。品物を見ていたら後ろからカートでおばさんに突っ込まれて、アキレス腱あたりにカートが強くあたって、「痛っ!」と声に出しました。しかし突っ込んで来たおばさん私の顔も見ずにいなくなりました。ええ?ぶつかられて声に出して痛がっても、視線すら合わせてもらえない?ありえないでしょ。周りを見わたしても皆自分の買い物の事に気を取られて、人がちょっとぶつかったぐらいでは見向きもしない。「い、いたい・・・。」ちょっとショックで私はその場で呆然と立ちすくんでしまいました。
 ちょっと変わった事があった時って、何となく周りを見渡して他の人の承諾を探しませんか?そう言えば何十年も前の学生時代東京で電車に乗っていたら、隣の人(男性)が近くによって隣に座ったんです。隣じゃなくても場所があるのに。何故かと思ったら、突然耳をなめられたんです。は?と思いません?ちょっと起こった事が理解できなくて、耳を触ったら、ぬれていたんです。おえ。食事中だったらごめんなさい。でも、その人を見たら、何事も無かったように普通に前向いて、こちらの方も見ていない。今のは本当に起こったのだろうか?こういう突拍子もないことが起こった時も、周りに承諾を求めましたね。「皆見てた?今、この人、私の耳なめた?それとも何かの拍子に倒れて口がぶつかっただけ(それでよだれも垂れた・・・)?」と口に出しては言わなかったけれど、他の人も驚いて見ていないかを確認しました。でも、皆見ていなかったのか、しれーっとしてました。何となく状況が飲み込めなくて、電車を降りましたね。
 視線合わせといえば、自閉症は一番できませんよね。視線を合わせる事自体が強化子になっていないから、その大事さが理解出来ない。こういうのって、Joint Attentionって英語では言われるんですけど、上の例をそのまま使えば、私がなめた人の方と傍観者の方に視線を行ったり来たりさせることです。子どもの例を使えば、子どもが何か好きな物を見つけた時に、お母さんとその物へ視線を行ったり来たりさせることです。人の目を見る。人の視線を追う。これは一番自閉症の子供が苦手であり、さらに教えるのも本当に難しいことの一つです。
 従来のABAでは、これをスキルとして普通に教えようとしたのです。例えば、子供が欲しい物を見つけた時に、親と視線を合わさせてからその物を与えます。新しい物を置いておいて、その子が親の視線を見ることができれば、その物を与えて強化する。しかし最近の研究者の中では、その相手から見てもらえることやお母さんのうなずきなど(社会的なこと)が強化子になっていなければならないと指摘しています。行動ができるか、できないかよりも、したいか、したくないか(行動の機能)が重要なんです。私だって視線を追って時折承諾をもらえることがあるから視線を追っているのでしょう。私にとって周りからの承諾は強化子であり、それを探すために視線を追うわけです。
 強化子でないものを強化子にする方法として、この間からペアリングについては書きました。研究者のイサケセンとホルツさんは、ペアリングではないことを紹介しています。親の笑顔やうなずいていることがシグナルとなって、自分の欲しい物が得られる。親がうなずいていない、得がいでない時は、自分の欲しい物は得られないという状況にします。まあ、信号みたいなものですかね。交差点に入ると、信号を探すでしょ?交差点という状況で信号が見たいのは、青信号なら安全に渡れるし赤信号なら危険だからです。子どもの例では、何か知らない物、新しい物がある状況で、お母さんの笑顔が安全のシグナルになりお母さんも怖がっていれば危険のシグナルになるのです。だから子どもは新しい、知らない物を見つけた状況では、お母さんの顔を見る。欲しい物があった時も、お母さんの顔を見て笑顔ならもらって良い、そうでないなら取ってはダメというトレーニングをすることで、適切な場面で視線を追うことを教えられる(お母さんの笑顔が強化子になる)。「あれ取って来て」と指示しておいて(あれを指定しない)、お母さんの顔を見てその「あれ」をみつける練習をさせることもトレーニングとして紹介されています。ただこれだと、何か自分の好きな事を見つけた時に、「お母さんにも見てもらいたい。」というトレーニングになっているのかな?良い方向に進んでいるのは間違いないと思うけれど、私もイマイチ最後まですっきりしないんです。
 これはねえ、理論や学説研究などもまだ確立していなところ。はっきり言ってABAの最先端でもまだまだ研究がこれから必要な分野だと思います。研究がどんどん進んで、色んな方法が試されて、簡単に読んだ人が真似できるマニュアルができるようになるといいですね。私もまだ勉強中ですので、一番良い方法等は紹介できません。ちなみに研究論文を読んでみたいという強者の方は、出典は以下の通りです(両方ともオンラインでただで手に入ります)。下記のように慶応大学の山本淳一先生も研究されてるんですけど、私の読んだ論文は英語で書かれていましたので悪しからず。日本語で山本先生Joint Attentionについて書かれた本出されているかな?どなたか知ってたら教えて下さい。

Isaksen J. Holth, P. (2009). An Operant Approach to Teaching Joint Attention Skills to Children with Autism. Behavioral Interventions, 24, 215-236.

Naoi, N., Tsuchiya, R., Yamamoto, J., & Nakamura, K. (2008). Functional training for initiating joint attention in children with Autism. Research in Developmental Disabilities, 29, 595-609.

2013年4月1日月曜日

ABA: Momentum勢いに乗る

 先日おじいちゃんと花見に行ってきました。お昼に名古屋地方では有名なCoco一番のカレーを食べました。「ここに来るときはいつもこれ。」と言うので、皆でヒレカツカレーを頼みました。おじいちゃん夫婦を見たお店の人から、「ごはん多いですけれど、良いですか?」と聞かれましたが、「ええ。」と自信満々に答えていたので、そのまま普通どおりを注文しました。ヒレカツが2枚ものっていて、サラダまで頼んだ私はお店の人の言う通り、ごはん全部食べきれませんでしたが、おじいちゃんは完食してました。去年の11月に胃がんの手術で3分の2切除したばかりの88才とは思えない。しかし車に乗って花見に向かうと、突然喋らなくなりました。単純に食べ過ぎで苦しかったんですね。食い過ぎてしまったおじいちゃんは公園についても階段で座って、じっとしたまま動けなくなってしまいました。やはり3分の1残っていない胃で、あのカレーとかつの量は無理かな。一人でぽつんと座り込む姿に哀愁が漂う。反省タイム?ちょっと一人でそっとしておいてあげたんですが、突然いなくなっているのでどうしたのかと思えば、公衆便所で戻していたそうです。「すっきりした。」とゲンキ満々で戻ってきました。反省しただろうか?いや、してないな。これからもきっと食べ過ぎを続けるに違いない。
 手術後私に車を譲り運転も諦めてしまっていたため、ちょくちょく外に連れて出かけるようにしているのですが、最初のうちは「いつでもええ。」「何にもいらん。」とかって遠慮して、私の誘いも結構断っていたんですよね。でも出かけ出したら結構連れて行ってもらうことが楽になったみたい。最近は勢いがついちゃって向こうから電話結構かかってくる。毎週のように出かけるのを楽しみにするようになっています。「毎週というのもつらいかも・・・」とも思うけれど、まあアメリカにいてずっと会ってなかったし、連れて行けるうちは連れて行こうかと考えています。
  行動全般についても言えることですが、勢いにのるということが大切です。Behavioral Momentumっていう専門用語もあるくらいです。意外かもしれませんが、研究によってその効果も証明されている。どういうことかと言うと、起こりづらい行動があるとすれば、起こりやすい行動を何度か起こしてその合間合間に起こりづらい行動を挟むことにします。例えば、数字の課題が難しいとするじゃないですか。数字の課題を見ただけでも「ええー。やりたくない。」と嫌悪反応が起こる。それに対してひらがなの課題は比較的簡単に出来るとします。そうすると、ひらがなの課題をいくつかやって、「できたー。えらい!」とかって褒めながら、その合間合間にこっそり数字の課題を1課題だけ混ぜちゃうんです。「これから数字をやるぞ!」って力入れて繰り返しやるんじゃなくて、ひらがなをやってたと思ったら知らないうちに数字がちょっとだけ混ざってた状態にするのです。こうすることで、「ええー。やだー。やりたくなーい。」から、「あれ?数字の課題なんかやったっけ?」という事になる。
 自閉症の療育ではディスクリートトライアルをやる時なんかは、これをよく使いますね。普通だったら特に嫌がらずに課題をする子どもでも、新米のセラピストにまかしておいてちょっと目を離すと、子どもがべとっと床に寝ちゃってしまったりして全然やる気無し。新米セラピストに「どうしたら良いんでしょうか?」なんて質問されますが、こっちも、「どうやったら子どもをそんな状態にできたんだろう?」と不思議に思います。こういう時はMomentumを使います、というか勢いにのせます。子どものやりたいことや、本当に簡単にできることから徐々に導入して、できたらすっごい褒めてやる。これでやる気なしから、「おっ、勉強楽しいかも?」と思ってもらうわけです。やっぱり成功体験は強いですよ。簡単な課題や好きなことが指示を出してできるようになったら、様子を見ながら徐々に難しい課題も挿入する。押せれば押すし、その日やその時は押せなさそうなら、押さない。この「様子を見ながら押しつ押されつ」というところが、経験で学ぶしかないかな。

2013年3月31日日曜日

社交スキルを周り全体が教える

 名古屋でアイズサポートという療育支援の会社が、3周年記念講演を行われるという事で、昨日土曜日に参加させて頂きました。実は地元の中日新聞でも取り上げられておりまして、名古屋でも色々療育支援の会社が育ってきていて、本当に嬉しい事です。親からしたらやっぱり療育も選択肢がないと。
 金沢大学名誉教授の久野能弘先生も午後から発表されていました。失礼なこと言いますが、久野先生のインパクトに圧倒させられましたね。これが面白い、面白い。面白すぎてついお昼ご飯までついご一緒させて頂いたんです。毒舌って言うんですかね。痛烈な批判も大きな声で実名を出してガンガン言ってしまう。「あれ(ある有名なABAの療育家のサービス)やっとったら、子供がダメになるぞ。」とか、「臨床心理士のの○○知ってるか(たくさん本も執筆されている超有名な方です)?あれだけ嘘がつければそりゃ本も売れるわ。・・・あれの患者さん死んだよ。人を助けるより殺した方が多いんちゃうか。」とか、他にも次から次へと敵を作ってらっしゃる。さらに、「だから俺は不適応を起こしてクビになって・・・」なんて言われて、生徒さんから「(クビじゃなくて)退官されたんですって」と。やはりこういった他者批判から自己卑下のコメントまで含めて、久野先生ならではの会話のサービスというか、ボケと突っ込みのボケということでしょうかね。聞き手が突っ込むことが期待されている。この辺関西育ちじゃないと難しいですよね。私はぼんやりしている系なので、「そうじゃないですよ。」とか否定したり突っ込まなきゃ行けないところでも「はあ。そうですね。」なんて同意してしまったりして、聞き手スキルというか適切な社交スキルが育っていない。せっかくの会話を膨らますことができてない。「すみません。うなずく所じゃないですね。」と言うと、「日本ではうなずいとったら生きておれへんぞ。」と、ぴしゃり。やっぱり頭も切れる。先生は毎日ブログも書かれているようで、面白いので読んでみて下さい。
 アイズサポートの代表の伊藤さんの講演も大変丁寧で良かったですよ。4年目に突入ということですが、一つ一つ丁寧にケースを考えておられるようで、真摯で真面目な姿勢が印象的でした。こういった療育の場が本当に増えると良いと思います。
 ところで社交スキルと言えば、お客さんで高機能の方の就労支援、ジョブコーチをされている方からの質問で、面白いものがありました。「緊張すると笑ってしまう人がいる。会社の上司や同僚にも、障害があって笑ってしまっていることをきちんと説明しておいてあるが、頭では理解しているのと、実際にそれを経験するのは違い、笑われるとストレスが溜まってしまう。」ということでした。そうですね。日本では一般に我慢する文化というか、多少のストレスでは口に出さずに我慢してしまう良い人が多いです。逆に言えば、ストレスを徐々に溜め込んで後で切れてしまう人(健常の人)もいますよね。こういう場合には、「障害があるから、緊張すると笑ってしまうんだよ。」ということだけではなく、では笑ってしまった場合に上司や同僚としてどうやって接したら(教えたら)良いのかまで説明し、見本を見せると良いでしょう。
 具体的にはその人によって違うので、質問に出られた方にはどういった接し方が一番良いのかは分かりませんが、例えば「今笑っているの分かる?今は注意している時だから、笑っても良い時?じゃあどういう表情が適切かな?そうそう。やればできる。じゃあやり直してみよっか。」などと、上司や同僚の前で、間違いが起こった時点で、社交スキルの練習をするわけです。(人前で注意されることに敏感なクライエントさんもいるので、人前で恥をかかせないように、批判的な言い方にならないように注意してください。それから、本人との信頼関係が育っていない場合には難しいので注意してください。強化を繰り返して行く事で信頼関係は築けます。)こうやって周囲に社交スキルの教え方を(プロンプトや強化の仕方)教えることで、ストレスを我慢している上司や同僚の方には、「ああ、こうすれば良いのか。」というやり方がわかります。何度も見本をみせると良いです。
 意外ですが、上司や同僚のスキルの上達も重要なのです(他の社員の教育にも役立ったりして)。もちろん本人の社交スキルが上がる事も大切なのですが、「緊張すると笑ってしまう」という時点で、他にも社交スキルの欠如で他の人にストレスをかけている場面が色々とあるはずです。そんなに簡単に社交スキルが全般に改善することは稀なので、逆に周りがどうすれば上手くストレスを溜めずに、本人の行動を直させるか覚える事も重要です。口で「障害がある」と説明するのでは足りませんので、どうするのか具体的に見本を見せることが必要でしょう。

2013年3月26日火曜日

自閉傾向のある子「壊れたチーズバーガー」Good morning Americaより

 今朝アメリカの朝番組である「Good Morning America」で紹介されたストーリー(ヤフーのニュースを通して)を見ました。良い話なんで、ちょっと訳しておきますね。
 ユタ州の7才の自閉傾向のある女の子、チーズバーガーが大好きなんです。ある日レストランでチーズバーガーを頼み、テーブルに運ばれて来たら、全然手を付けなかったそうです。フライドポテトだけ食べてました。お姉さんがどうして食べないの?と聞くと、「欲しくない。壊れてる。直したのが欲しいの。」と言ったようです。実はチーズバーガーは半分に切られていたんです。でも半分に切っちゃ行けないなんて特別な要求って、あまり普通には聞かないですよね。お姉さんが、そういう要求は理解してもらえないと思って、半分に切られていないものをもう一つ余分に注文したらしいです。でも、お店の人がその特別な要求をしっかり受け取ってくれて、「とんでもない。お金なんて取れませんよ。」って言って子どもに謝って優しく接してくれて、「直してくれた」らしいですよね。半分に切らずに。チーズバーガーが届くと、その子「ありがとう。チーズバーガー直してくれた」って喜んでチーズバーガーに何度もキスをしたそうです。
 お姉さんがその写真を取って、レストランのサービスの良かったことをFacebookに載せた所、それが22万以上もの「like(いいね)」と10万以上のコメントにつながったらしです。レストランのマネージャーはその後Autism Speaks(自閉症をサポートする組織)の代表者からもお礼の電話があったようです。
 ちょっと良い話でしょ。

2013年3月25日月曜日

個別教育目標・IEPその1:個別性

 先日東京を訪れた時の話をしますね。大学生時代に東京に住んでいたんですが、もう10何年前の話なので、町並みが新鮮に映ります。新宿なんか凄い人数の人が歩いていて、特に朝よりも夜の方が人が多い印象でしたね。夜11時でもすごい人が流れている。名古屋とは人口が違いすぎるなあ、何でこんな人数の人が生活していて大混乱にならないんだか不思議だと思いません?あれで地震なんかあったら大混乱で人波にやられそう。昔のゴジラの映画みたいになるんだろうか。女の人がキャーって叫んで。怖い怖い。まあ名古屋の方が南海トラフ地震予想などでやばいと言われているか。てな事を考えながらついぼんやりしてしまいます。口を開けて歩いてなかっただろうか。歩く事に集中できてない。ただでさえこんなようにぼんやりしているのに、さらに地方から来るとビルの上の方にある看板広告などに視線を奪われて、何となく上向いて歩いちゃいますよね。ビルで空が狭くって、しかも色々な広告で情報過多になり、どうしてもフラフラ歩いてしまう。地方出身者か観光客であることがバレバレですよね。ふと、「このままフラフラしているとぼられるかもしれない」と、地震よりもより近未来に起こりそうな現実に引き戻されます。ただのカラオケの呼び込みの人たちにも、何となく「この人に言葉巧みに騙されるかも?」とか、東京の人がみんな私を狙っているかのような被害妄想になるので、さらに怪しい物腰になり、しかも鞄をしっかり持つので必要以上に肩が凝ります。今回は特に迷わずに帰ってこれましたが、地方の人が東京に出るとこんなに大変なんですよ。え、私だけ?
 知らない(久しぶりの)土地を探索するということでも、人ぞれぞれですよね。知らない場所ということですから、どの人もそれなりにストレスはあるでしょうが、特に看板なんかにとらわれない人もいれば、気を取られて他にぶつかってしまう人もいる(東京に住んでいてもそうなる人もいると思う)。私のように考え事でぼんやりしてしまっている人もいれば、ちゃんと目の前のこと(歩く事)に集中出来る人もいる。呼び込みや客引きに対応するのも気にならない人もいれば、やけに丁寧に対応してしまう人もいるでしょう。自閉症などの発達障害の治療教育では、その個別性に重点を置く事が必要となります。
 私の尊敬するアメリカの学校の校長先生がいたのですが、その校長先生の意見によると、教育目標は学ぶべき事・教える事すべてを羅列するのではなく、それぞれの子どもの強い点・弱点を理解した上で、一般の学習カリキュラム(教育課程・教育内容)の内容をその子がどうやったら学べるようになるのか、足らない部分を付け加えて支援するのが個別教育目標であるということです。例えば、色を学んだり、数を学んだり、そいうった事は3−5才の子どものカリキュラムに入っている訳です。別に個別な目標ではない。しかし、集団で勉強する上でみんなと一緒に輪になって座って先生の読むチューリップの色の本を聞いてくれなければ、それから図画工作で色んな色を使う活動に参加してくれなければ、色を学ぶ機会が極端に減ってしまい学習に支障をきたします。子どもによっては、看板に目をとられて歩いている私のように視覚情報に惑わされて、先生から言われた言葉は素通りしてしまう子どももいるかもしれない。他にも、先生の見本を真似することができないとか、その子どもなりの弱さを見つけていって、それをカバーすることを目標に入れる事で、本来のカリキュラムの学習(色・数を学ぶ、他の子どもと仲良くすることを学ぶなど)が出来るようになるのです(またはそれに近づくようになる)。地方から上京して来た人の例で言えば、人によっては徐々に看板や地理になれることにより、目的地に向かって歩く事に集中するようになれるかもしれないし、ついつい呼び込みや客寄せに丁寧に返答してしまう人にはしっかりと「No(いりません)」と言えるように練習することで、歩く事に集中できるようになるかもしれません。
 こういった本来の意味の個別の目標は、一番始めのIEPというか、まだ子どもを教え始めていない時にはできません。子どもの学び方までは1回や2回会っただけではわかりませんよね。毎日のようにしっかり療育してそれで療育する側が見つけて行くのです。 しかも療育をして行くと、「こうだな」というような見込みが裏切られることもよくあるので、目標を立てたからと言ってそれにあまり縛られずに、臨機応変に対応することも大切かもしれません。もちろん最初から予測する事を諦めろという意味ではなくて、出来る限りの予測は大切だけれど、それに縛られないということ。1年後にその子どもがどうなっているか、正確な予想はできないながらも、だいたいこれくらいは教えて行きたいという見込みが目標となるのです。1年教えていれば、その経験からある程度の指針というか見込みはつきますが、それでも指針の変更を迫られる時もありますよ。それが教育の面白さというところなので、悪いという事ではないかもしれません。
 本当に個別に対応してくれているのか、療育者を選ぶ際は個別対応に焦点をあてることが重要であると思われます。子どもの学習を見ていて、ええ?と驚くような他の子どもとの違いに気づいて、それを個別に解決して行く作業を楽しんでくれる先生、療育家が見つかると良いですね。自閉症に限らず型にはまった人生は面白くありませんから、その個別性を楽しまなければ。

2013年3月21日木曜日

その先へー「福祉、自閉症、治療、教育」への補足

 前回、東京でのセミナー講演の話をして、アメリカの実際のところというか、夢のような国でもないよというような視点を紹介しましたが、今回はその補足です。実際の国ですから、それは夢のようなことばかりでは無いのも当然です。セミナーではあまり私の意見は言いませんでした(言っちゃっていたような気もする)が、ここは私のブログなので私の意見も継ぎ足しちゃいますね。
 私の前に講演して下さったNPO法人発達わんぱく会理事長の小田先生が、詳しく福祉の制度について説明して下さいました。(ちなみにADDSさんからの報告のブログはこちらまで。)ちょうど私の講演の部分と足らない部分を補う形になって、良かったと思います。私もずいぶん勉強になりました。
 日本の福祉・教育はどういう方向に向いたら良いのでしょうか?私は現状のシステムを徐々に改善することが一番だと思います。日本でも2012年から「児童福祉法」といった福祉の法改正から、自閉症、発達障害児への早期の治療教育が公的に援助される可能性ができているわけです。しかし、小田先生も指摘されていたように利用する企業が比較的少ない。老人ホームなんかを見てると、最近の法改正により本当に今たくさんの企業が経営に参加していますし、あの勢いとは比較にならないですよね。あくまで私の勝手な推測ですが、理由の一つとしては、福祉の法律なので当たり前ですが、どちらかと言えば福祉の関係者からの発想でできており、心理・教育の関係者との連携にまだまだ改善の余地があるからかもしれません。ちなみに小田先生も社会福祉士(ソーシャルワーカー)ですよね。治療教育を行うとすればその専門家は心理・教育の分野にいますから、社会福祉士などの福祉の専門家が、心理・教育の専門家が連携してより良いものになるものだと思います。もちろんどちら側の発想も重要です。現在児童福祉法が福祉の法律であることは確かなのですが、心理・教育側の意見もしっかりと取り入れて今後法律を改善していく余地があると思います。
 もう一つ重要なのは、治療教育の質です。現段階では、社会福祉士、保育士、臨床心理士、作業療法士、言語療法士などの専門家を雇うことが明確にされている以外には、特にサービスの質をどうやって管理し改善して行くことが法に直接書かれていない。研究の結果明らかになっている治療教育の方法を使う事を義務づけたり、国全体として研究を使って治療教育を常に改善して行くという心構えが必要だと思います。講演でも言った通り、アメリカの教育の法律であるIDEA(Individual with Disabilities Education Act)のパート4にあたるような、教育の改善、研究の推奨、研究の結果を直接活かした治療教育ということを、今後法改正する際にはしっかりと位置づける必要があるでしょう。
 私は日本に帰って来てまだ半年経っておらず、日本のシステムに対する知識は低いと言わざるを得ないので、私の意見もこれから色々勉強する事で変わってくると思います。色々と勉強して、日本のシステムの改善に貢献出来たら素晴らしいですね。

福祉、自閉症、治療、教育

 先日(3月3日)自閉症の早期教育を根付かせようと頑張っておられる、NPO法人ADDSさんのセミナーに呼ばれて東京に行ってきました。今回は講演する側ということでしたが、自閉症児を持たれる親御さんや治療教育関係者など100人を超える方が参加して下さい、ありがとうございました。日本でも自閉症治療教育への関心の高まりが感じられ、はっきり言って意外でした。というのも、アメリカから帰って来てある日本の親御さんの体験談を聞くと、自閉症の診断を受けた時は「そのまま受け入れてあげて下さい」というようなことを言われ、特別にABAなどの療育についても紹介されなかったとおっしゃっていました。事務所の近所の特別支援の幼稚園では、「ええ、毎日やるんですか?ABAの先生も一度来られたけれど、ABAは月に一回とかやるものだと思っていました。」と言われました。日本では治療教育について誰もまだ知らないのではないか、という漠然とした印象を受けていました。しかし会場では明らかにかなりの知識を持たれた方からの質問が続き、あまりに対照的で新鮮でした。日本でも知っている人は知っているんですね。逆にそう言う知識を持った人の集まりが今回のセミナーであり、新しい動きの象徴であるのでしょうか、自閉症の治療教育についての知識と経験が徐々に培われつつあるんだと感じました。私の講演の内容について興味のある方は、ADDSさんがブログの方に報告してくれていますので、よろしければそれも合わせてごらん下さい。100人を超える参加者を集められたADDSさんと、それを支えられた裏方さんに感謝します。学生セラピストさんが託児までしていただいたようで、ありがとうございました。
 今回の講演については、「アメリカの事例を紹介して下さい」と依頼を受けました。アメリカに12年もいたんだから、そりゃ紹介くらいは簡単にできます。しかしスライドを作るにつれて、本当にこんな事知りたいんだろうかという疑問がわきました。みんなアメリカの進んだ療育の話はよく聞きますよねえ。親からしたら、今すぐ手に入らない物の話を聞かされても、はっきり言ってやってられないですよね。スライドを見ると、「羨ましいでしょう?20年後にこうなるかも?日本もがんばろう!」という感じになってて、そんな話セミナーで聞いて帰って、自宅で自分の子どもの療育の現実を目にして、頑張ろうというよりは逆にがっくりするんじゃないかと思いました。これを見た参加者から「やってられるか!」って、暴動が起こるかもしれないと思いました。じゃあ何が知りたいのか、日本から見た視線を知りたいと思い、やはり頼るのはインターネットですね。ちょっと色々なサイトを検索したところ「アメリカの福祉は非常に良い」という言葉を見ました。やっぱりそういう話はみんな聞いている。
 ちなみに検索にはどんなキーワードを使われますか?「自閉症、治療、教育、福祉」。日本の治療教育の現状を知りたい、公的資金の使われ方などを検索したいと思った時に、私は知らず知らずこういったキーワードを使って検索いました。しかしこの時に何となく同じことを英語で検索しようと思ったら、福祉という言葉の翻訳が私の頭の中に浮かばなかったんです。ここで気づきました。私は福祉の専門家じゃなくて、心理・教育の専門家です。12年アメリカにいた時にもほぼ福祉という言葉は仕事上使いませんでした。これまでアメリカにいた時から感じていた、日本の制度への違和感はこの福祉と教育の誤解から来ているのですね。というのも、アメリカにいて日本のことを聞いて一番驚いたのは、「日本では、障害が認められれば手当などのお金が出る。」ということです。生のお金ですよ。アメリカではあり得ないです。教育には資金が出ても、何に使ってもよいお金が直接親に与えられるなんて事は、かなりの貧困層でない限りないんです(日本でも収入制限はもちろんあるが、それほど低くはない)。もちろん電車等の優遇もない。他にも公的資金がでないのは、託児所関係。自閉症児、健常児に関わらず、幼稚園前に子どもを預けて仕事に出たかったら、自分でお金を払って託児所やベビーシッターに預けるんです。就学後の放課後デイや子どもを預かってくれるところは、ほぼ有料です。一般にアメリカは福祉という面では、日本より手薄なんです。「福祉の後進国だ」なんてテレビで言っているコメンテーターもいましたが、私は福祉が遅れているというよりも国民の選択によって、福祉よりも一人一人の責任を重要視しているからと思います。福祉の盛んなのは何と言ってもヨーロッパですよね(お金もかかるのでそれが良いかどうかは別として)。
 教育に関してもアメリカと日本はちょっと違いますよね。住む場所によって良い所と悪い所の差があまりにも大きい。日本でもまあ差はあるのですが、アメリカの差に比べたら可愛いものです。差が激しいと言う事は、自分の子どもの教育も低い方に流れる可能性が常にあるということですので、アメリカでは一市民として自分の子どもの教育の権利は自分で勝ち取るのです。与えられるものを頂くという受動的な態度ではなく、一人一人の親が常に頑張って子どもの教育を良いものにします。教育業界にはAvocateっていう人たちがいるんです。この人たちは特定の資格のある人ではなく、自分たち自身が障害を持つ子どもを持っていたり、療育に携わった経験から、お母さん達の応援役として学校との交渉に加担してくれる人たちです。日本から来た親御さんですと、「ええ?Advocateですか?そこまではちょっと。」と言われる方が多いです。学校と対等に交渉して少しでもよい教育にしていこうという意識や経験もないでしょうし、もちろん日本では事を荒たげないことが重要視される場合もあります。
 ということで講演の内容も「アメリカでこんな良い療育があるよ。」というものから、「アメリカのウソ・ホント」というスライドに書き直し、「本当の所はどうなの、アメリカ?」という感じで進めました。この方が聞く方もまだ力が湧いてくると思ったんですが、どうでしたでしょうか?

2013年3月12日火曜日

学び方それぞれ

 おじいちゃんと一緒にモーニングを食べに行ってきました。「モーニング」ってご存知ですか?名古屋地方で喫茶店に行くと、「モーニングサービス」と称して、コーヒーや紅茶を頼むと、簡単な朝ご飯がサービス(=ただ)でつくんです。良いでしょ?今回は喫茶店ではなくって、コーヒーも飲める喫茶室付きのパン屋さんだったんですが、320円で、コーヒーと160円までの調理パン(種類は色々)が2つ選べるんです。しかも小さなクロワッサンに生クリームが入ったものは、勝手についてきました。すごいでしょ?おじいちゃんは、胃がん手術後順調に月に1キロ体重を増やし、すでに全回復に見えます。さすが。朝ご飯を食べてからでかけたのに関わらず、大きなパンとクロワッサンも普通に食べて、甘いものは「別腹」と言い切っていました。手術で胃を3分の2切り取ったはずなんだけれど・・・。「食べれるようになったね。」と言うと、「まあ、最初の頃は口に手を突っ込んで戻しとったけどな。」と語っていました。やっぱり無理していたか。でも、普通手術後そんなに無理して食べるか?
 春の陽気の暖かさに、車いすのおばあちゃんと歩いて行きました。やっぱり車いすを押して移動するって、やってみないと不便さは分かりませんね。道路も普通に歩ければば何ともないのだけれど、微妙にちょっとした傾斜がかかっていたり、歩道に入るところに段差があったり、車いすを押すからこそ色々なこ とが目 に見えるようになる。というか、ちょっと歩くだけでかなり疲れる。私が疲れるくらいだから、これはおじいちゃんが車いすを押して歩いて行けないはずだ。喫 茶店でも、入り口の片方はドアの所の段差が気になるし、出口はスロープがあるが自転車が止められていて自転車を動かさなければ出られない。障害者がどんなところで問題に突き当たるのか、どんな所が難しいのか、本当にみんな体験してみなければ分からない。
  自閉症の療育は、結構「やってみなければわからない」所が多いと思います。自閉症なんて一概にひとくくりにされているけれど、本当に色んな症状があるんです。ですからそれぞれの問題もかなり異なっていて、車いすのように皆が同じような問題にぶつかるとは言い難い。一般に自閉症の人は、ビジュアルというか視覚を使った教え方が有効であるとよく言われます。これは、耳で聴覚から聞いた言葉はそのまますり抜けてしまうけれど、視覚で指示された事には反応してくれやすいということです。例えば、「じゃあ今から机に戻って」と言われても無視するけれど、机の写真を見せると机に座ってくれることがあります。ただし、実際にやってみると視覚重視というのも微妙に人それぞれなので、そうは簡単に行かないんです。写真をむやみやたらと撮って使えばそれで良いかというと、そうでもない。それぞれに合わせて学習の壁にぶつかった時に、じゃあどうすれば良いのか真剣に考えてくれる人がいることが、療育の重要な所です。
 私も10年以上療育についているので、よく「○○でなかなか先へ進みません。どうしたらよいでしょうか?」と聞かれます。「ドラえもん」のように簡単な解決策のポケットがあって、「じゃあこれ使ってみる?」なんて言えれば良いんですが、残念ながらそんな簡単に解決策はないんです。もちろん出来る限り研究等で使われている方法や、これまでに他の子どもに成功した方法を試したりするのですが、結局の所その子なりの学び方をじっくり観察して、色々試してみる課程でその子特有の解決策を見つけて行くことが、やっぱり一番の方法なんです。ぶっちゃけ色々な問題を可決する便利な解決策のポケットなんて持ち合わせていないんですよ。私だって今になってもそれぞれの子どもの学び方を学ぶというか、「ああしたら良いか、こうしたら良いか」って色々試してそれで徐々に進んで行くという作業を続けています。
 私も療育を始めた頃は、有名な先生は色んなことを知っていて魔法のように問題が解決されるような、有名なABAの会社に勤めればそういうノウハウを学べるような、ABAの経験・これまで積み上げられてきた研究の歴史に、漠然とですが現実離れした期待感を持っていました。まあ、実際にすごい知識を持たれる先生もおられます。例えば、現在のアメリカ行動分析認定協会の会長のドクターCarrは、臨床の問題を持ちかけると、「ああそれは、20○○年の誰々の論文の○○という方法を試せば?」というように、これまでの学術研究雑誌の目次がそのまま頭に入っているような人です。初めて彼に監督してもらった時は、はっきり言ってびびりましたね。それから10年は経ってますが、私は残念ながらそうはなれませんね。一つ一つケースを見て、一緒に解決策を探すだけです。ただし、人離れした能力を持つ人は世の中にそう何人もいないし、実際に療育に普段からそういう天才系の人が一緒にいて手取り足取り指導してくれる必要はないかなと思います。時間をかけてもしっかり解決して行けば良いのです。その問題解決が積み重なって、長期間で大きな違いになってくるのではないでしょうか。

2013年3月11日月曜日

療育中の気持ちの浮き沈み

 今日で3・11から2年目になりますね。昨日・今日はテレビや新聞等でも特集が組まれていますが、本当にゆっくりとしか復興が進んでいなくて「将来が見えない」ということに不安を募らせている被災者の方も多いようです。また、最近は「忘れられてきている」と感じている被災者の方が多いような報道を見ます。私も地震があってすぐは募金などをしたんですが、最近は気になっていつつも何もしていないです。全国にも「気になってはいつつも・・・」という方も結構多いと思います。気持ちだけでは伝わりませんから、何か行動にして、形にして気持ちを伝えなければいけませんが、なんだかぼやぼやしている間に時間が過ぎてしまう。ブログに書くだけでも、何もしないよりはましですかね・・・(勝手なことを)。どうか復興に向けて頑張って欲しいです。名古屋地方の中日新聞では特に3・11などの記念でない日にも一面に、「犠牲の灯り、第2部 飯館 女たちの哀歌」のシリーズとして被災者一人一人のストーリーが綴られています。本当にものすごいドラマが展開されていて読み応えがありますが、こういった現実を語り継いで、忘れないようにしなければいけませんね。ちなみに、中日新聞のこのシリーズに興味のある方は、ウェブサイト上で簡単に読めますので検索してみてください。
  思えば自閉症の診断も、地震のようなものかもしれません。人口の何パーセントかは必ず診断されるものということですから、確立で言えばどの家庭にも起こる可能性はある。しかもどういう生活習慣や食べ物、環境要因を避ければその確立を下げられるのかも分かっていないのですから、防ぎようもない。(そう言えば、半年くらい前ですがアメリカの新聞記事で、父親の年齢が高いと自閉症診断の確立も増えると出てましたかね。まあ父親の年齢が高ければ他の病気のすべての確立も高いのですが。)診断されれば、普通に思い描いていた人生計画というか、子どもに期待していた予想図を完全に崩されて、療育や特別支援教育などといった新しい道筋を建てることを余儀なくされる。多くの親から、「診断された日はもう二日間泣いた。それからどうしようか考え始めた。」と聞きます。こういう人生の大きな局面で色々なドラマがあります。
 早期教育をしていると、親の悩みや感情の浮き沈みのドラマに常にさらされているような感じですね。子どもの成長が目に見える時は、「もしかして健常児の教室にいけるかも」と期待で親の胸もいっぱいになりドキドキし、顔を見ただけでもその嬉しさが感じられる。でも、あまり成長が実感出来ない時には、「ああ、やっぱり無理だったか」なんて沈んでしまいます。時には、「ABAはダメかな。他の解決策はないのだろうか?検索してみようか?え・・と、GFCFダイエットって何だ?」と、色々な方向に手を出そうとします。(ちなみにGFCFとは、食事の中からグルテンなどの小麦や乳製品中のタンパク質を除去すること。グルテン等にアレルギーのある人には効果大。自閉症に効果があるとは特に報告は出ていないが、効果があったという体験談は聞かれる。)療育に携わる立場からは、「その場だけの成長度合いで一喜一憂せずに、長い目で見て療育を続けて下さい」とお伝えしますが、こういった感情の浮き沈みはどうしても仕方がないと思います。逆に言えば、こういった親の浮き沈みをどうやって支えて、どうやって前向きに持って行けるか(親のサポート)が療育家にとっては大切であるとも思います。
 どの子どもも成長は直線ではなく、時に大きく成長したり時には横ばいだったり、下がって見えたりするのです。上り下がりを繰り返しても大きな目で見て徐々に成長している限り、特に問題はない。だから今横ばいだからといって、そこで気持ちを沈めたり、療育を変えたり止めたりする必要は必ずしもないのです。私の経験からすると療育を始めた頃は、特に早期で始めた場合は子どもの行動に大きな変化があることが多いので、特に問題がない。ただし半年くらい経って来ると、「最近は前程成長がないし・・・」なんて親から言われることが時折あります。面白いのは、「最近前程成長がない」と言う親の子どもを見ると、療育する側からすると「ええ?こんなに成長しているのに・・・(ええ?同じ子の話をしている?)」と思える事が多いんです。私が子どもを見ると、明らかに前に出来なかった事ができるようになってて、実生活でも使えるようになってきていて、他の子にも興味を示し始めている。指摘すると親も「ああ、そうだね」と喜ぶけれど、それでも「成長してる」と実感できない。これは、私が親に「小さな変化に気づく目とそれを喜ぶこと」を伝授できなかったからかもしれません。
 だいたいどの子どもの療育をしていても、親に「小さな成長に気づいて行く目」を育てる必要があります。療育というのは、健常児が普通なら何もしなくても勝手に学んで行くことを、手を変え品を変えというか、色んな方法を試しながら子どもに合わせて教えて行く課程なのです。健常の子どもと比べれば本当に小さな成長であったとしても、自閉症の子どもが同じ事を学ぶには、背景に教育の時間だけでなく教材を変えたり、教え方を考えたり、ご褒美や面白くなるような遊びを考えたりといった裏方の時間が何十時間もかかっている場合が多いのです。療育の専門家からすれば、逆に本当に小さな課題を達成しても、「よっしゃー」って大声で応援して行かないとやってられない。しかし、やっぱり親からすれば、すぐにでも変化が欲しい。特に同じくらいの年齢の健常児と接する機会の多い家庭(例えば親戚の子どもとか、近所の子どもとか)だと、もちろん良い意味での刺激もすごく多いのですが、反面無意識のうちに比較してしまいやすい。また、「就学までに健常児の学級に入れる。」といった、具体的にどうすれば良いのか分からない目標をたててしまうと、成長をどう評価して良いかも分からずに、目標に近づいていないような焦りだけが先走りしてしまうこともある。
 書いていて、これは普通の教育と同じだなあと思いました。「東大に入る」なんて目標だけたてても、実際に一つ一つの数学や英語の問題ができるようにならなければ、しかも問題が解けるようになったことを一つ一つ喜んで前向きにやる気を出して行かなければ、勉強も長続きしないです。ちなみに私も受験の時は、「アルファー波を出す音楽を聴きながら、寝ている間に日本史を覚える」なんて都合の良いことをうたい文句にしている教材を買ってみた事もありました。当然効果がある訳がない!?今考えれば、熟睡してアルファー波なんて出てたのかな?自閉症などという大きな課題を目の前にしたら、それは安易な考えにも走りますよ。簡単な解決策があれば良いのにね。これは自閉症に限らずですけどね。目の前にある課題を一つ一つクリアしてくしか、先はないんです。長い道のりだけに、焦りは禁物です。クリアできた課題一つ一つを喜んでいかないと途中でばててしまいます。逆にその課題解決の一つ一つを楽しんでいきませんか?

2013年3月9日土曜日

ABA:シンプルな行動の理由

 最近合気道を始めました。私実は武道一切やった事無いんです。もちろん義務教育中の体育の授業でやらされる柔道とか剣道を除きます。私子どもの頃はそう言うの絶対嫌いでしたね。でも、大人になってやってみたくなる事もあるでしょう。でも人にこのことを話すと、まず「ええ?」と驚かれ、その次に「何で?」「どうして合気道?」「やったことあるの?」なんて聞かれます。私は時折こういったあまり脈絡のない行動に出ます。昔髪の毛を坊主刈りにした時も色々聞かれました。私からすると「別にやってみたかったから」とか「格好良さそうだから」「体に良さそうだから」程度の理由で始めたことだし、深い意味はないので、聞かれると答えづらい。あんまり人から聞かれるものだから最近は、「日本に帰って来て、日本らしいものを始めたかったから。」とか、「合気道は試合がないから、怪我が少なさそうだ。」とか、人が納得しそうな理由を探し始めました。はっきり言って面倒くさい。どうして皆「理由」を求めるのでしょうね。何か理由が無ければ行動を始めて行けないのだろうか。
  その点行動分析学は私には最高に合っている。行動が起こる理由というのをシンプルに分析する。というか、あまりにもシンプルすぎて逆に一般受けしづらい傾向がある。心理学のその正反対にあるのは、精神分析だと思います。行動が起こる理由を深〜く分析する。同じように逆に深すぎて一般受けしない。私は頭が比較的シンプルなのか、行動分析を学び始めたときは、「これだ」と思いましたね。行動を増やす強化とか減らす消去とか、とりあえず確実に分かる事、証明されている事を使って行動を分析しようとしたり、行動を変えようとするやり方が行動分析学(ABA)なんです。もちろん行動の科学で行動すべてが解明されている訳ではないし、これまでの研究の成果がが新たな研究の成果によって覆されることもあるのですが、それが科学というものです。少なくとも「専門家」の勝手な推測や理論によって振り回される可能性が少ない。
 昔自閉症の子どもは、「親が冷蔵庫みたいに冷たいから子どもが心を閉ざしてしまった」と分析されたりしたのご存知ですか?「専門家」にそう言って言われた親って、ただでさえ学習が困難な子どもを抱えいるのに、さらにその問題の原因とされてしまっていた親って、どうやって過ごしていたんでしょうか?絶望的ですよね。行動分析(ABA)では、自閉症という複雑な問題にも、行動の原理というシンプルな基本に従って分析します。例えば、「健常の子どもには強化子となるものが、自閉症の子どもには強化子でない」とか、「適切な行動が強化されていない」などと分析します。一般の人に分かる言葉で言い替えますね。普通子どもって褒められるとうれしくなって、何度も褒められた行動を繰り返したりしますよね。自閉症の子どもは、褒められても別になんともない場合も多いんです。誰かが「すごーい。」って笑顔で言っても、目をそらしたまま反応もない。人の行動なども見ていませんから、健常児が普通にする行動である「模倣」をすることもない。そうすると、健常の子どもが人の真似をしながら、人の顔を見ながら、一日中どんどん学んで行いっているのに、どんどん遅れが出てしまう。ですから、「褒められる」ことを、「うれしい」と思ってもらえるように変えたり、模倣する行動を教えたりすることで、その自閉症の症状を改善させよう。こういう風に考えるのです。
 行動分析で100%自閉症が治るということはありません。これは研究を見ても明らかに分かっていることです。ですが時折、「ABAで自閉症が治らないから、フロアタイムをやる」という事を聞きます。フロアタイムがABAとは違って、「親密さと暖かさ」「人と関わること」を育てて行くことに焦点を置いていることはご存知でしょう。では、ABAを使って行ける所まで行ったら、もしくはABAと同時にフロアタイムなどの療法をお勧めするでしょうか?私はしませんね。フロアタイムがダメとか言うつもりはさらさらありませんが、考え方が違いすぎて私からすると意味が分からないし(意味も分かっていない療法を紹介出来ない)、研究でも証明されていない(効果があるという証拠がない)療法を勧めるわけにも行きません。もちろんABAですべてを改善できないことは分かった上で、できること、分かっている事(効果があるという証拠のあるもの)をお勧めします。
 ちょっと掘り下げると、「私には(フロアタイムの)意味が分からない」と言いましたが、私は行動分析学を学んでいるので、それに合わない論理構成に納得できないということです。行動分析学の教科書には良く出てくる例で説明しますね。「人と関わることができない」「親密さと暖かさが確立されていない」というのは、どうやって分かるのでしょう?例えば視線が合わないとか、ハグなどの人の愛着表現を無視するとか、そういった行動を観察してですよね。では、「人と関わることができない」「親密さと暖かさが確立されていない」ということが原因となって、視線が合わせられなかったり、ハグを無視したりするんでしょうか?逆だと思います。視線が合わないとか、ハグを無視したりするので、「人と関わることができない」「親密さと暖かさが確立されていない」と名前を付けられただけです。ですから、視線を合わせられて、ハグがうれしそうにできて、というそれぞれ一つずつの行動が改善されて始めて、「親密さと暖かさを確立された」と言えるけれど、「親密さと暖かさを確立した」ことが原因となって、一つずつの行動が改善されたというのは、原因と結果が混乱してしまっていると思います。行動分析が行動に焦点を当てるのは、見えないもの(親密さ、関わり等)を無視しているからではなく、行動が改善されなければそういった見えないものも変わらないと考えるからです。もうこれは考え方の違いなので、あまり深く議論しても仕方の無い事かもしれません。
 こういった基本の考え方は、どんな複雑な事象を分析する時にも基本的に変わりません。行動分析学を学ぶと、すべての人間の(そして動物の)行動をこれまで分かっている(証明されている)行動の原理に従って考えます。これは「世界は行動の原理ですべて説明出来る」という哲学というか、考え方です。ちょっと今回難しかったかな?

2013年2月25日月曜日

ABAペアリング:価値を変える

 先日名古屋のアメリカ領事館に行ってきました。領事館のイメージとしては、何となく大々的に「領事館」とかって看板とかあって、「私の国を知ってください。」「色んな人いらっしゃい」という雰囲気で、アメリカ人とか日本人が大勢行き来している市役所のアメリカバージョンいたいなのを想像していました。全然違いましたね。ビルの中の小さな入り口で、知らなければ絶対通り過ぎてしまう。警備員がいて、何のために来たのかを説明しなければドアの近くにも寄れない。ドアは鍵がかかっていて(営業時間中でも)、インターフォンで中の人にもう一度理由を説明して初めて入れてもらえる。それから、飛行場のセキュリティーみたいなのをくぐって、荷物を検査されるんです。
 セキュリティーを通りながら、ふと壁を見るとオバマ大統領、バイデン副大統領、ヒラリークリントンの写真が並んでいて、「ここは日本国内でも、アメリカの領土なんだ」、とつぶやきました。するとセキュリティーのおじさんが、「そう、そこのドアからこちらは、ユー、エス、エー!」と興奮気味に答えてくれました。このおじさん面白いでしょ?ユーモアというか、いい味出してる。ちなみに用事は全部日本語ですみました。「ユー、エス、エー!」って、微笑んでしまいますよね。
 ユーモアのセンスって人それぞれだけれど、自閉症に教えることは難しい。というか、面白いと感じるか、感じないかはそれぞれの価値観なので、教えられるものではないのです。ABAにおいて価値観をかえるには、ペアリングというのを使います。簡単に言えば、「ペア」って「一対」ってことです。「好き」な物と「普通」の物を何度も(何百回、何千回)一緒に(対にして)提示することで、徐々に「普通」の物が「好き」になるのです。例えば、赤ちゃんが徐々にお母さんの姿、声、肌触り、においなどを識別し、(他人より)お母さんの方に近づこうとするのは、お母さんの姿や声などが「ミルクをもらえる」「暖かくしてくれる」「おむつを交換して清潔にしてくれる」「守ってくれる」といった、赤ちゃんに取って「好き」なことと何百回も何千回も結びつく(ペアリング)ためと言われます。ちなみにペアリングの効果は(普通の物が好きになる)、すぐに起こる事もあれば、残念ながら何百回しても起こらない事もあるんです。ですが、私は療育(治療教育)上大変重要な手法として使います。特に早期教育というか、子どもがまだまだ価値観などが定まっていないうちは、「ダメもと」でどんどんやります。
 自閉症の場合、「好き」「嫌い」の価値観が少し違う場合が多いのです。例えば「よく出来たね」と褒めてもらうことが、全然「好き」でなければ、教育上大変教えるのが難しくなります。褒められるとうれしくて舞い上がって褒められた事を何度も繰り返してしまう子もいますよね。自閉症の子の中には、褒められても無表情のままその場を離れてしまったりすることもあります。「親の嬉しそうな顔」にも視線が合わない子どもも多いです。逆に、親が嫌そうな表情をしても全然無視する子どもも多いです。ですから、親の嬉しそうな顔、褒め言葉などと、子どもの好きなもの(遊び、お菓子など)を一日何度も一緒に提示する(ペアリング)ことで、その価値観を変えて行こうとするのです。
 表情、褒め言葉の他にも、価値を上げたいことがあります。「同一の物を一緒にする(マッチング)」、「人の動作を模倣すること(動作と動作のマッチング)」、などです。前にも「模倣」の投稿で話しましたが、一般に人は思ったよりも人の真似をして生活している。例えば、人が行列をつくると、つい行列の先に何があるのかも知らずに並んでしまう人がいます。(ペアリングされた結果というか、過去に模倣して楽しい結果となった経験があって)模倣自体が面白くなっていたため、そういった行動を取るのだと思います。普通の子どもを見てると、ライオンとライオンを一緒に、牛は牛と一緒になど、色々同じ物を一緒にして遊んでいたりする事もあります。その場合「同じ」ということは、子どもにとって面白いんです。さらに言うと、ミスマッチ(上手く合わない物、反対のもの)も面白いんです。ユーモアの一種にもなると思います。テレビで有名な「ハリセンボン」の近藤春菜さんのギャグで、「○○じゃねーよ。」ってありますよね。あれも「似てる(マッチング)」というのと、「でもそんな人に似ていると言ったら失礼かも(状況からするとミスマッチ)」と合わせているから、面白いかなあと思います。
 私がアメリカで教えてい子どもで、マッチングが徐々に面白いという事がわかるようになって来た子どもがいました。療育前は、他の子どもなんか見向きもしなかったのに、早期教育の結果、他の子どもを真似するのが好きになってしまいました。しょっちゅう真似をしています。そのうち、こんな事を言い始めました。「青信号走れ。赤信号停まれ。」という風にお父さんと言葉遊びをしていたら、「赤信号走れ。青信号停まれ。」って自分でわざと間違えて言って(ミスマッチを作って)、自分で笑うんです。これって、ユーモアの目覚め?と療育している側が嬉しくなってしまう瞬間ですよね。 「赤じゃ走らねーよ。」とかって「突っ込み」まで教えれば良かった。でも、英語で「突っ込み」ってないよね。

2013年2月20日水曜日

音声模倣:質問への回答2

 前回の投稿に付け加えて、質問への回答をします。
 質問の内容は以下の通り。音声模倣(五十音順)まで進みましたが、一行に3文字以上に進みません。「あか、あお、もも」は、まね出来る様になりましたが、「ばなな、りんご」などがまね出来ない状況です。「立って」、「コップ取ってきて」、「ばななを指指して」などが出来るので、物の名前などは分かるはずなんですが。
 
 他の方にもためになると思いますので、私の回答を以下に載せておきます。
 音声模倣は一番難しいレッスンの一つです。どうしても身体プロンプトが使えないので、シェイピング・分化強化していくしかありません。ここで大切なことが二つあります。
1:「物の名前が分かっている」ということと、「物の名前が言える」というのは、全然別のスキルだということです。
2:「一音一音が言えるのだから、組み合わせも出来るはず」と一概に考えてしまいがちですが、そうとも限らないということです。
 私の経験からすると、自分の名前が言えない子どもがいました。「名前は?」と聞くと、「イェティー」と言いますが、本当の名前は全然違うんです。しかも、名前の一音一音を模倣させると言えるんですが、組み合わせると何故か大分違う「イェティー」になってしまう。本人は結構自身満々で言っています。スピーチ(言語聴覚士)の先生も「組み合わせの音は難しい」と言われました。
 こういう場合、子どもと療育する場合の両方にストレスがかかってしまいます。物の名前が分かっていても口で言えない(自分では言っているつもりでも口から出てこない)というのは子どもにもストレスがかかります。教えている方は「何で言えないんだろう」という疑問から、ストレスがかかります。はっきり言って、ストレスをかけたまま練習を繰り返して、あまり喋らなくなってしまった(話す事自体が嫌になった)例も見ました。
 どういうことかというと、私の理解では、筋肉を育てる必要があるので、時間がかかるということです。大人は流暢にはなしているので、筋肉を使っていることさえ意識していませんが、顔の筋肉は複雑です。話はじめの子どもは筋肉が発達していないので、特に音の組み合わせを覚える際には、しょっちゅう話させて筋肉を徐々に育てることが大切です。
 私の場合、ストレスをかけないように言葉全体の練習をすることが大切だと思います。「ばなな」や「りんご」の発音自体にあまり固執せず、「言おうとしている」「がんばっている」行動全体を褒めてやれば、本人にもストレスがかからずに日常的に音の組み合わせをがんばって出す練習の機会を増やせます。筋肉増加の練習量が増えれば、練習量増加にともなって、特別「ばなな」ばかりを練習していたわけではなくても、徐々に3音4音の組み合わせの音が出来るようになる事があります。
 ちなみに「イェティー」君も今では普通に喋ってます。「イェティー」と言い始めてから自分の名前が言えるようになるまで、半年以上かかりました。

2013年2月17日日曜日

教育で行き詰まった(質問への返答)

 質問をいただきました。ありがとうございます。また、投稿という形で返答させて頂きます。
 「(4歳児が)動作模倣、音声指示、音声模倣(五十音順)まで進みましたが、一行に3文字以上に進みません。なにかしら突破口があれば、ご伝授お願い致します。」という質問です。残念ながら「一行に3文字」というところがよくわかりません。音声模倣が3音までできる(おかし、ほしい、等)ということですかね。
 色々教育をしてきて先に進みづらいというか、天井にあたったというか、これまではそれなりに学んで来たけれど、学ぶスピードが落ちて来たとき等、そう言う時もありますよね。しっかりとした教育をしていても、そう言う事はあります。だいたい学び方は、いつも単純に右肩上がりという訳ではなく、時には学んでいないように感じることがあるのが普通です。そう言う時に、第三者の目線って大切ですよね。自分が気づかずにおかしている間違いに気づいてくれる。ええ、成長してるよ、って言ってくれる場合もあります。自分で解決しようとする場合、ちょっと他の事をしてみたり、その事につい考えないようにしていると、しばらくすると「ああ、こんな事をしていたから先へ進めてないんだ。」って気づく場合もあります。
 この質問者の場合については詳しくは分からないのですが、ちょっと目線を変えた療育にしてみるという手もあります。例えば、椅子に座らせて「あ」「い」等という五十音を模倣することを教えたのであれば、逆にそういったやり方を辞めて、例えばお菓子が欲しいときに、「ちょうだい(4音)」と言わせるとか、外に行きたい時に「ドア開けて(5音)」と言わせるとか、生活の中でだけ教えるというように、教育の方向性を変える事も良いかもしれません。え?それぐらいはもうやっているよ、って?これがやり方によって色々効果に差が出ます。例えば、上手い人がやれば遊びの中だけで、歌を歌って歌詞を言わせるとか、踊りを踊って「イエーイ」と言わせるとか、お笑い芸人のギャグの真似をさせるとか、遊んでるだけでかなりの音を出せるようになりますよ。もちろん子どもによってはそう簡単に遊びに乗ってこない子どもとか、椅子に座ってやる方が断然やる気があがる子もいるので、あくまでアイデアとして取ってください。
 でも、毎日やってると何が良くて何が悪いのか自分では分からなくなる事もありますよ。似たようなセラピーの経験のある友達の方に見てもらうなんてことも、良いかもしれません。ただし、この質問者のお子さんの場合、模倣や言語指示など、ある程度の指示には従えるようになってきているので、いずれにせよこれからその学んだ事を色んな場面で現実的に使えるようにすることが必要になってきます。 徐々に教えた行動を日常生活で使えるようにしていくというのは、大切です。

誤学習:教えようとするあまり

 誤学習とは、誤った行動を学んでしまったり、正しい行動が誤った状況で起こってしまうことです。教育しようとした側が意図しない結果になることです。例えば、何かしてもらった時に礼を言うことを子どもに教えたいとします。ごく普通の教え方としては、何かをあげる前に「ありがとうっ、て言って。」などと子どもに言いますよね。自閉症の子どもによくある誤学習は、「ありがとう」と言わずに、「ありがとう、って言って。」と文章全部を繰り返してしまう事です。他の例としては、「ごちそうさま」と言う事を教えたいのに、ご飯を食べ終わったあとに「ごちそうさま」じゃなくて「ありがとう」と言ってしまうなどです。「ありがとう」自体は誤った行動ではないのですが、言う状況が間違っている。これも良く見られます。
 この程度の誤学習は比較的簡単に直す事ができます。例えば教える側が、「ありがとう、って言って。」と言わずに、「ありがとう」だけ言うようにする等です。しかし、長年かかって学習してしまった行動は、修正が難しいこともあります。ある学校で、こんな生徒がいました。その学校では、否応なしに子どもを椅子に座らせて勉強させる。子どもが嫌がって席を立とうとすると、連れ戻してきて座らせる。もちろん勉強ができれば、しっかり褒められてご褒美ももらえる。大部分の生徒は、最初は連れ戻されるから仕方なくやるけれど、徐々に褒められる喜びのために勉強するように変わって行き、逃げださなくなる。他の学校では学ばなかった子どもが、この学校ではしっかり学ぶようになることも多く、親から見てもこの学校に期待する度合いは大きい。しかしその生徒は残念ながら、しっかり褒められて学ぶ喜びよりも、逃げても連れ戻されるから仕方なくやっている方が強かったようなのです。体が大きくなるに連れて(中学生になるぐらいで)、抵抗すれば勉強しなくてよいことに気づいたのです。これまでは、逃げ出そうとすればすぐに席に連れ戻されていたけれど、床に寝そべって「うどん」のように体をしならせれば、もう大きくなった体は持ち上げられにくい。できたとしても、時間がかかるので勉強時間は減る。教室に入らずにドアの前で床にごろんとすれば、もう先生は引きずって席まで座るのは難しいので、勉強の時間が減る。色々有益な行動を教える予定が、予定外の「うどん」になる行動を教えてしまったわけです。こういった状態で「どうにかして欲しい」と私が呼ばれました。
 その子どもの状態を知るために、ちょっと席に座らせようとしました。もちろん、勉強出来た時のご褒美も用意して、この生徒が簡単にできるような勉強を用意しました。でも、席に近づく事すらできないんです。勉強につながりそう場所に近づいたり、「席に座れ」なんて言われたりすると、すぐに床にでろんと寝そべってしまう。寝そべる行動は、勉強が嫌だから起こる事は明らかなようです。「あ、お菓子がテーブルにあるよ」とごまかしながら体を押して席に近づけようとしても、本当に大人二人がかりでも席に近づく事すらできないんです。よっぽど嫌だったんでしょうね。長年ずっと嫌な事をやらされて来たんでしょう。私も魔法使いではないので、長年かけて育った「勉強嫌い」を好きに変えることはできません。というか、そんなに嫌だったら、何も学ばないでしょう。
 先生とのミーティングで、何のために座らせる価値があるんですか?という会話から始めました。すると先生から、「じゃあ好きな事を勝手にやっているなら、何のために学校に来ているの?それじゃ他の学校と同じでしょう。遊ばせているだけじゃないんですか?」と言われました。先生は学校に対する誇りがあるんですね。この生徒には失敗したかもしれませんが、教育に対する情熱は熱い。でも、私は好きな事をやっていても良いと思います。逆に本人が好きな事をやっていると思えるような状況を作る事が大切なんです。座れないのなら、机に座らずに遊びや他の生活の活動の中で色々教えることもできるでしょう。ただ、生徒主導というか、生徒が先生を無視して勝手にやっていてはダメなんです。学校内で先生に教わるということは、ルールにも先生の指示にもある程度従ってもらう必要がある。ですから、学校の教育を「机に座らせて教える」タイプから、「遊びや活動の中で教える」タイプに変えてもらい、ルールに従う事から徐々に教えましょうと助言しました。しかし、これまでの歴史の影響は大きい。この子と一緒に他の活動をしようと思っても、勉強を連想させるようなことすべてに抵抗を見せ、どんな指示にもほぼ従えない状態でした。「○○しよう」なんて言うと、別に嫌でないことでもすぐに床に寝そべってしまう。ですから、「指示に従うことって悪くないよ」という新しい経験を積む所から始めなければ行けない。これまでの勉強に対する悪い印象を徐々に変えて行くために、指示を与える機会自体を大きく減らすことにしました。もちろんこれでは意図的に学ぶ機会を大きく減らしてしまうので(いずれにせよその時点では、何を教えているとも言えない状態であるが)、親にも承諾をとりました。
 具体的に言えば、取りあえず、本人が好きなビデオを見る、クラスで好きな遊びをする、等と言った、非常に楽チンでやりやすい時間割にしました。ここで重要なのは、先生の指示に従って、そのスケジュールに従って教室間を移動するということです。ビデオ室に行ってビデオを見て、時間がくれば教室に戻り、お昼は食堂に行って、先生の指示通り教室間を移動するということが意外に難しい。これまでは、たとえお昼に食堂に行くだけでも、だまされて勉強させられるとでも懸念しているのか、床に寝そべってしまう。全員他の生徒がいなくなって初めて「勉強じゃなくて、ご飯の時間だ」と確認し、移動する。しかも、この子は何かの活動の最中にフラフラと歩き出してしまう事が多いので、「食べている時は座る」、「ビデオを見ている時は座る」といったルールも教えなければ行けない。これだけでも意外に学ぶ事は多い。実は、時間割を変えてすぐは、ビデオルームに入るだけで抵抗しました。「お前の好きなビデオ見ろ!」って強制しているようで、笑ってしまいました。一週間ぐらいで抵抗せず、床に寝そべらずに自分で教室間の移動ができるようになりました。面白い事に、次の一週間で本人の顔に違いが見られました。これまでは、花粉症とか埃のアレルギーで、顔の口の周りの皮膚が真っ赤になっていたんですが、皮膚がきれいになって、赤みが取れました。これまで本当に毎日床にずっと寝そべって来てたために、埃と花粉にまみれてアレルギーが悪化していたんだ、と私も初めて理解出来ました。先生も、「これで何とか教えられる方向性が見えた。」と言っていました。
 この後も色々とでてくる問題を解決しながら徐々に教える事を増やして行きましたが、紆余曲折というか、本当に時間がかかりました。先生の教えたいという思いが逆の結果に至ってしまうこともあるという例です。

2013年2月15日金曜日

地域でする教育:ABA般化

 高校時代からの友達のエイちゃんとカフェに行きました。「カフェ」って言われて、「コーヒ屋さんのこと?」と思いつつ、そう言えば、テレビを騒がせたどっかの犯罪者も「猫カフェ」って言うのに行っていたなあとぼんやり思い出しました。ごはんも食べられたり、お酒が飲めるところもあるんですね。カフェだけを紹介した雑誌やブログもあるらしい。やあ、少しいないと日本も変わる(ああ、12年いなかったか)。そこのカフェは春日井市のベル何たらさん(すいません名前覚えてなくて)。経営者一人だけで注文取りから料理まですべてこなしていました。美味しかったですよ。小洒落た内装も個人でやられたのでしょう。私も個人経営しているから、そういう人がんばって欲しい。
 ところで学校の先生をしているエイちゃん、生徒のお母さんに「挨拶運動はしないんですか」という声をかけられたと話していました。「挨拶運動」という言葉自体がなつかしい。私は、挨拶などの基本的な作法は家で教えるものと思いますが、家だけで挨拶を教えるよりは、地域が一体となって挨拶をもりあげる方が、家で挨拶する子どもではなく、家と地域両方で挨拶する子どもを育てられる。ABAではこういうの、「般化」っていいます。行動を色々な場所で起こるようにする。学校が躾作法の教育を手助け出来る良い例だと思います。
 自閉症の教育にも地域の協力が本当に大切なんですが、自閉症児に対してどう接すれば良いのか、一般の人には分かりづらい。自閉症の子どもは顔が可愛かったりするもんだから、顔だけ見ていると健常児でわがままなだけに見えてしまうので、公園やスーパーで泣いてしまっていると、「躾が悪い」などと親が非難されてしまったりするんです。自閉症を知らないところから来ることなので仕方の無い事なんですが、協力どころか非難される経験があると、親も外に出づらくなってしまい、ますます自閉症児が地域で目に付かず、一般の理解はさらに深まらないという悪循環になりやすいんです。
 私のアメリカの相談を受けた親からこんな話を聞きました。自閉症の子どもが、外出先のバス停でバスが遅れてきたためにパニックになって、周りの人から大ひんしゅくを受けた。周りの人に「私の子どもは自閉症で、特殊教育に行ってって」って説明してやったけれど、 理解は得られなかった。このお母さんは偉いですね。障害をちゃんと他の人に説明しようとするそのパワーがすばらしい。でも、そこまですることはお勧めできない。
 一般の理解は、人の考え方はそれぞれなので、理解してくれない人がいるのは仕方の無いことです。ただし周りからの理解を少しでも得ようとするのであれば、私がお勧めするのは、人前でも恥ずかしがらずに「子どもに何が大切なのかしっかり説明する。大切なことが出来れば、しっかりと褒めてやる。」ことで、何を教えているのか周りに知らせることです。例えば、バスが遅れてくる等と言った予定が変わる事、予測出来ないことが起こることに対して、パニックを起こしやすい子どもがいるとします。バスが来る予定時刻の前から、「予定ではこの時間に来るよ。でも、バスはいつも時間通りに来る訳ではないよ。その時はどうするの?そうだね。お話ししたりして、時間をつぶせば良いよ。予定が変わっても、ちゃんと行き先に行ける?そうだね。時間が遅れても大丈夫。ちゃんと行き先に行けるよ。」などと周りの人にも聞こえるように話す訳です。バスが遅れてきた時には、「偉いねえ。良く待てている。何のお話ししようか。・・・お話をする・・・ほら、バスが来なくても楽しい事もあるよね。」などと説明する。これをしっかりしておけば、子どものためにもなるし、周りの大人も「ああ、この子はバスが遅れてくるのは待てないから、教えているんだ」と分かりやすい。「この子は自閉症だから、バスが待てなくて・・・」って説明する必要はないんです。っていうか、バス停で会っただけの人に診断名まで知らせる必要ないでしょ?これだけ説明しても分からない人には、言ってもわからないと思うので、諦めるしか無いですが。
 公園でも、子どもの良い行動を一つ一つ褒めてやる。例えば、「す・す・そう、スコップ言えたね。」「欲しい、って言えたね。」「これは?そう、滑り台。知ってるね。」「やったー、ブランコこげた。」などと褒めていれば、他の親からもその子どもがどんな事を今学んでいるのか分かりやすい。周り人にも、「あれ?ちょっと褒めている内容が違うかな。」という程度の印象を与えるかもしれないけれど、悪印象はないですよね。親が子どもを褒めているのを聞いて、心地よくない人ってのはあまりいないものです。しかも、何かあった時にも協力を得やすい。その子が突然他の子どものオモチャを取ってしまったとしても、「欲しい、ってきくんだよ。欲しい、って言ってごらん。」って教えていれば、取られた子どもの親としても「ああ、手を出す前に、欲しいって口でお願いする事を今教えているんだ。」、って理解しやすい。わがままな子どもと、躾のなってない親と判断されてしまいにくい。親が子どもを褒めて教えている所を見ると、つられて真似したくなってしまう場合もあります。他の親も、つられて自閉症の子を色々褒めてくれたらうれしいし、自閉症に限らず他の子どもも褒めてくれたら良いですよね。地域全体で子どもを褒めて育てて行く習慣ができれば良いですね。

2013年2月12日火曜日

待つ力:欲しい物を待てる?

 今日アメリカの国土安全保障省に電話して、申請手続きに関する質問をしました。そういう所って、だいたい始めは機械が応答します。日本語に翻訳すると、「お電話ありがとうございます。○○の方は○番を、○○の方は○番を押してください。」といった感じで流れますので、番号を押して回答していきます。「お待ちいただきありがとうございます。電話をかけられた順番で応答します。申請書類の番号を用意してお待ちください。」といったアナウンスが流れつつ、このまま国際電話なのに30分も待たされました。結局のところ待てずに電話を切ってしまいました。それだけ待てば本当に腹立ちますよね。外国人だからって(国土安全保障省に電話するのは基本的に外国人)、そんなに待たせなくて良いですよね。日本の官公庁は最近ずいぶん親切になってきましたから(というか前から)、電話で30分以上待たされるという事はまずないと思います。
 日本では官公庁でないところで、結構待たされます。電車とか、ラーメン屋とか、テーマパークとか。でも驚いた事に、みんな平気な顔で待ってますよね。両親と墓参りの帰りに、ついでだから近くの小さなテーマパークに寄りました。お昼を食べたかったのですが、どこのレストランからも「18組待ちです。」なんて言われて待つ気すらしません。肉まんやコロッケなどの軽食を買うのにも行列。しかも並んでない所に行ったら、「材料が亡くなってしまいました」とかで、待たずに食べるという選択肢がひとつもない。それでも、並んでいる人を見ると、どなたも別に平気そうなんです。驚くべき日本人。そんなに腹減ったまま待たされて大丈夫なのか?私的には暴動起こす寸前だったんですけど。日本人は行儀が良いということなんでしょうか。
 自閉症や発達障害がある子どもの療育をすると、よく「この子は全然待てないんです。欲しいお菓子があればすぐに椅子に登ってでも棚から取ろうとするし、ダメだと言ってもその場では聞いたような顔をしているんですが、すぐにまた取りに行ったり。」という事を聞きます。「待つ」という行動を教えるにはどうしたら良いんでしょうか?残念ながら、人って待てないもんです。「待って」という指示に従うように教えられない事もないですが、言語が発達していない子どもの場合、基本的に教えられる待ち時間は短く、長くても一分とかが限界です。というのも、言語できちんと説明できない人を、長く待たせようと試みる事がおこがましい。例えば外国人で全然言葉が通じない人を、時刻表のないバス停からバスに乗せたいとします。その人に、一人でバス停で30分待たせることが出来るでしょうか?説明無しに人を30分待たせるという事はまず出来ません。それこそよっぽど暇がない限り、時刻表もないバス停で、来るか来ないかも分からないバスをいつまでも待つことはないでしょう。特に「バス停」自体の意味も知らなければ、尚更待つことを期待する方がおかしい。
 ですから、長時間待たせなければならない場合には、「待つ事を教える」のではなく、「待たせずに、他に何をさせれば良いか」を考えます。子どもを外出先で待たせる必要があるのならば、ちょっとしたスナック類と携帯できるオモチャ類は必需品だと思います。待つのではく、代わりに何をしたら良いのか指示するのです。例えば、「待つんだよ。」というんではなく、「じゃあこのオモチャで遊びましょう」という風に持って行く訳です。お腹がすいてきたら、「もうすぐご飯だからダメ」ではなく、「ちょっとスナックを食べましょう、ちょっと食べたらすぐに遊びをしましょう。」という指示を与える訳です。これは甘やかしではなく、「説明があまり理解できない」という事を親が理解した上で当然の配慮をするだけの事です。泣いたり、逃げ出そうとしたり、近くの物に手を出そうとしたりする子どもに、「ダメ!」と何度言っても無駄です。逆にけんかになります。待っている意味が分からないのですから。
 今言ったような「ダメ!」という事を繰り返していると、逆に物に対して執着するようになることもあります。いつも「何となく好きな物をもらえていない(飢えている)状態」と言うと分かりやすいですかね。隠れて物を取ろうとしたり、反抗したりするかもしれません。物を我慢させるよりも物を与えるタイミングに焦点をあてることが大切です。我慢させたいなら、逆にいつもらえるのか分かりやすくしてやれば、飢えなくてすみます。欲しいと言われたら、言葉の分かる子どもだったら「ダメ」じゃなくて「じゃあご飯の後で」などいつもらえるのか教えてあげる。言葉がわからないのであれば、「じゃあ○○しなさい。」とレッスンのご褒美として与える。物への執着の強い子どもから、物を取り上げなければ行けない時は、「交換」なんてします。「これはダメ!」ではなく、逆に「これをあげる」ということです。

2013年2月8日金曜日

ABA:消去

 自閉症の療育に関わらず、ABAは誤解される事本当に多いんですよ。色々誤解されやすいような専門用語もあるし、その考え方自体が分かりづらい場合もある。今回はその中で「消去」について触れて行きたいと思います。というのも、先日あるお母さんから、以下のようなアドバイスを聞いた事があると聞きました。「外出先で子どもが泣いてしまった時、絶対子どもの思い通りにやらせてはいけない。子どもの思い通りにやらせてしまうと、泣くという行動を将来的に増やしてしまう。どうせ泣いても30分くらいなのだから、泣かせておけば良い。」どう思います?理論的には正しいけれど、外出先という状況を考えるともっと良いでしょう。
 理論的にちょっと説明しますね。例えばスーパーで買い物している時に、子どもが抱っこして欲しくて、泣くとしますよね。「泣く」という行動に焦点を置くと、親が抱っこする事で、行動の後に良い事があったのですから、将来的には抱っこして欲しければすぐに「泣く」ようになってしまう訳です。簡単に言えば、泣いたからと言ってすぐに抱っこする癖を付けているために、泣く行動がいつまでたってもなくならない。ではそれを変えるためには?泣いても抱っこしないようにする事で、その場一時的にはもっと泣くかもしれないけれど、将来的には徐々に泣かないようになっていく(泣く行動を消去できる)という事です。ただし、そう簡単に教科書通りに行くぐらいなら、コンサルタントはいらないですよね。
 先に「外出先という状況を考える」と言いましたが、一般の人(子どもの事やABAの療育などを知らない人)が見ている状況で子どもを30分泣かせるのは、親の気持ちを考えると疑問に思えます。ある自閉症児を持つお母さんが以下のような話をしてくれました(実際の話です)。このお母さんの子どもは、スーパーに行って欲しい物があると、すぐに泣いてしまい、あまりに大きな声で泣きわめくため、どうしても子どもの欲しい物を買わざるを得ないと話しました。以前ABAを少し知っている方から、「スーパーで泣いても子どもの欲しい物をあげては行けない」と言うアドバイスを受けてそれに従ったところ、45分間子どもが泣き続け、泣いたあげくに(意図的に出はないが、かんしゃくの一部として)ワインのボトルを落として割ってしまった。店員さんを呼んで片付けようとしているのに、子どもは先に店を出ようとしているし、他の人から注目を受けて、あまりの恥ずかしさにその経験がトラウマになってしまった。もうそのスーパーには恥ずかしくって二度と行けない。と言うエピソードです。アドバイスがトラウマにつながってしまっては、元も子もないですよね。これは極端な例かもしれませんが、状況に合わせて手法を変えるというのはABAに限らず大切ですよね。
 こういう失敗は、消去という手法だけに依存する方法だからです。先ほどのお菓子が欲しくて泣いてしまっている、鳴き声の相当大きい、しかも簡単に泣き止まない子どもの例を考えた場合、消去だけを使う事はお勧めできません。適切でない行動を減らすだけでなく、他に適切な(強化したい・増やしたい)行動を探して、どうやってそれを増やすのかを分析します。お母さんと一緒にショッピングカートをひいて(他に手を伸ばさないように両手を使わせる)、一緒に歩く事を教えたいとします。子どもが欲しいと思われるお菓子を最初から用意して(レジまで待たなくても良い)、子どもが泣く前に、ショッピングカートを持って一緒に歩いている段階で、好きなお菓子を与えてしまえば良いのです。好きなお菓子が得られる訳ですから、子どもは泣く必要がない。最初は買い物を一緒に全部済ませる事は無理かもしれないので、適切に歩く練習をするためだけにスーパーに行くのも良いでしょう。スーパーの中一列を正しく歩けた時に、「良く歩けたね。」と褒めてやり、お菓子(一袋全部ではなくても、一個だけでも)与えます。徐々に一列から二列、そして店全体など、お菓子をもらう前に適切に歩ける距離を増やして行きます。上の例の子どもは、この手法で徐々にお菓子を得られるまでの時間を延ばして行き、最終的には買い物を済ませて車に戻って来てからお菓子を食べるまでになりました。時間は結構かかりましたが、このケースには効果的でした。これはあくまで例なので、これが他の子どもすべてに当てはあるということでもありません。子どもによって歩ける距離の長さ、適切な行動の種類(カートを持つ、お母さんの手をつなぐ、ボールなど小さなオモチャをポケットに入れて触る、品物の名前をあてっこする)など、色々考えて子どもにあったものを選ぶ必要があります。一般に言えるのは、行動を減らしたい場合には必ず、代わりとなる行動を強化することで、消去の起こす問題(一時的にでも泣くという行動が増えてしまう)をカバーすることもできます。
 どうですか?消去ダメだとかということではなくて、ABAを使えば必ずしも同じ手法を使うとは限らないと言いたいのです。上の例以外の手法も当然考えられます。状況や問題行動、子どもの好きな物、なぜ行動が起こるのかなど、子どもにあわせて分析し、その分析に合わせてアドバイスをするのがABAであり、だから「応用行動分析」という名前なのです。「ABAはスパルタな印象があるからやりたくない」、という事を耳にする事もありますが、私からすれば「じゃあ、そうじゃないABAにすれば良いんじゃないの?」と思います。スパルタにやる事もできるし(それが好きな人もいるし)、そうじゃなくも出来ます。私の場合、できれば親の価値観を尊重して(そう簡単ではありませんが)、子どもにも親にもあまり無理のない手法をなるべく選んでやる事を心がけています。

2013年2月4日月曜日

日本の福祉制度に質問

 日本で生まれて、「自閉症の傾向があるのでは」と懸念された場合、一般的にはどういった流れで福祉のシステムが利用されるのでしょうか?私も自閉症の福祉制度を勉強するために、地元名古屋市や、愛知県のウェブサイトを見たり、自閉症に関連する施設に電話をかけてみました。電話に答えて、特に丁寧に説明くださった公務員の方、ありがとうございました。
 まず、愛知県のウェブサイトで検索のところに「自閉症」とタイプすると、「あいち発達障害者支援センター」が出てきます。ウェブサイトによると、これは愛知県の春日井市にあって、愛知県コロニー「緑の家」という名前で発達に心配のある子どもとその家族が宿泊して(1泊、2泊、4泊5日など)、治療教育や発達検査を受けられるようです。ウェブサイトの内容も分かりやすい。ウェブサイトで自閉症と検索するとすぐにセンター名前が出てくるのですから、愛知県で自閉症と言えばここに行くのだろう、と率直な印象を受けました。
 電話をかけてみると、応対はとっても丁寧。今思い返すと、一番先に電話をかけたここが、一番対応が良かったですね。丁寧に質問に答え説明してもらい、本当にありがとうございました。しかし丁寧な対応なのですが、愛知県の福祉の現状については、やや驚く事が多かったです。このようなやり取りです。
こうじ:「最近療育で起業したんですが、パンフレットをおかして頂けますか?」
担当の方:「多分良いんじゃないですか。ただ、ここは奥まった所だし、あまり人の目につきませんよ。」
(こうじ心の声:あまり人が来ないって?愛知県が全面に推しているのでは?)
こうじ:「じゃあ自閉症児を持ったお母さん達はどこへ行って相談するんですか?児童相談所とかですか?」
担当の方:「そうですね、どこに行くんでしょうかね?親は保育園の先生、保健センター、児童相談所ということもあるかもしれません。保育センターでは子育て支援や親子教育などもあるので。」
(こうじ心の声:保育園の先生や保育センターでの子育て支援っていうことは、自閉症の専門でない方が主に相談にのるということ?)
担当の方:「自閉症の診断が必要かの判断もあるし。タイミングもあるので。流れの中で、取りあえず上手くやって行ける事もあるので。」
(こうじ心の声:え?診断が必要?日本では自閉症って、症状がある時に診断するのではなくて、「必要」な時に診断するの?取りあえず上手くやって行ければ良いってことは、取りあえず大きな問題がなければ、何の対応もない?)
こうじ:「自閉症診断の必要があるかって、親が決めるんですか?驚きました。」
担当の方:「親が必要があったと理解した場合というか、手帳等のメリットがある場合には診断を受けることになります。医者の場合は心配だという意見を述べて、様子を見ると言う事が多いですね。」
(こうじ心の声:手帳などの福祉のメリットがあって初めて診断となる。確かに誰も何もしてくれないのに診断名だけあっても、仕方ない。)
 あとはのやり取りは大まかに、「あいち発達障害者支援センター」ではスタッフが6人で、コロニーの中の一部だということ。本当に小さいんですね。愛知県 の自閉症児の全般に対処しようとするセンターでは明らかにない。それから、ウェブサイトに「愛知県と名古屋市では自閉将群と診断されると、医療保険による 支給が受けられる」とありましたが、それは金銭的に(診断等を含む)医療費の支給が受けられるということ(療育は医療費は入らない)を聞きました。
 ここまでで、あまりの認識の違いに愕然としてしまいました。ABAの療育(治療教育)をすれば発達の度合いに大きな結果がある、特に幼い頃に療育始めれば、効果が大きいことが研究で分かっているのです。さらに言えば、それが分かってからもう20年になるのです。早期発見、早期療育が重要かつ必要なで問題となってきていて良い頃ではないでしょうか?日本では、保育園の先生や、保健所の保健師などがする「子育て支援」の延長として対応(健常児と発達支援の延長線上の対応)しているのでしょうか?色んな疑問がわきましたが、今回のこの程度の会話で日本の福祉を分かったつもりになっても仕方がないので、これからも少しずつですが色々公的機関に電話をかけたり、尋ねたりして勉強させて頂きます。まだ私が知らないだけで、自閉症、広汎性発達障害に大切な福祉の制度が色々あるかもしれません。
 今回担当の方とのやり取りを官公庁の許可も取らずに暴露してしまったわけです。特に個人情報はのっていないのですが、法律上問題あれば言ってください。このブログもはずします。ただ、誤解してもらいたくないのは、公務員が良いとか悪いとかを判断するためにやっているのではないのです。私も日本で3年、アメリカで3年公務員をさせていただきましたが、公務員とは、法律で定められた仕事をするだけなのです。それ以上でもそれ以下でも行けないのです。その法律を作るのは議員さんなどの政治家であり、政治家に決められた法律を履行するのに必要な細かいルールを決めるのが官僚のトップです。 議員さんを選ぶのは誰?有権者なのです。私たちが決められるのです。公務員のやる仕事がおかしい、と思ったら変えればよいのです。変えるには、民主主義ですからある程度の人数の声が必要です。皆で声に出して行きませんか?

2013年2月1日金曜日

教師の体罰その3

 前回から引き続いて、体罰についてコメントします。今回は科学的な専門家としての話ではなく、私の日本とアメリカでの経験を基に体罰の善し悪しについて、その背景にある日本の文化について語ります。
 突然ですが私の父は体育会系(元警察官)で、体罰容認派ですね。彼の意見では、「叩かなければ危ない行為を繰り返すやつもいるからなあ。怪我をするくらいなら、叩かれてその前で済む方がましだと思うけどなあ。」「叩いたりする事を指導と受け取るか、体罰と受け取るか。ちょっと叩かれたぐらいで嫌になるなら、そんな態度ならスポーツなんて止めてしまえば良い。」 といった感じです。 私の母はやや中間派で、「子供によって受け取り方はそれぞれだから、こうじの様に気にしていつまででも覚えているような子にはやっては行けないし、いくら叩いても全然気にしない子供もいるから、子供に合わせなければいけない。」「優しくだけしていればコーチもなめられるし、中学生や高校生の指導は難しいか も。」なんて言っています。ちなみに根性のない文科系(文科系の皆様ごめんなさい)の私は体罰否定派です。やっても意味のない(良い効果が得られない)、しかも副作用もある体罰はやる意味がわからない。
 父の話を聞くと、罰を受けて「危ない行為」を減らす方が怪我をするよりも良いのではないか、と言う所が特に説得力ありますよね。しかしこれも論理に落とし穴があります。「危ない行為」をよく聞くと、「ちんたらやっている」とか「気合いが足らない」とかなんです。「気合い」というのは目で見えませんから、「走るのが遅い」「声の出し方が小さい」等の行動で判断しますよね。では、「声が小さい」「ゆっくり走る」人は「怪我をする」のでしょうか?もちろんそんな因果関係はないのです。「気合いが入れば怪我が少ない」という事を信じた結果、「ゆっくり走る」「小さく声を出す」という直接には怪我に関係のない行動も許せなくなってしまったのかもしれません。ニュースで報道された柔道のコーチの話を聞いても、「朝トレーニングに遅れてきた時に、叩いた」と言っています。時間を守るって、柔道の技術に直接関係ないじゃないですか。父のように、「朝遅れて来る」→「気合いが足らない」→「怪我につながる」という論理になってしまったのかもしれません。もちろん大間違いの考え方と思います。
 教育をする際は、危ない行為を罰するのではなく、安全のためにやるべき行為を増やすことが重要になります。例えば姿勢の取り方や体の動かし方などの、「直接怪我につながるような姿勢(良い姿勢)」「安全にプレーするために必要な姿勢(良い姿勢)」が特定出来るのであれば、悪い姿勢をした時に罰をするのではなく、良い姿勢をした時に褒めてやれば良いのです。安全なスポーツを教えるなら、こういった直接関係のある行動にまず目を向けて、しっかり教育して欲しいものです。
 私も小学生の頃は学校で体罰を受けました。例えば、朝礼 の時に校長の話をきちんと聞いてなくて、手をもじもじしていたりすると、平手打ちをくらったり、部活でタラタラとおしゃべりしながら走っていると、頭を小突かれたりとかです。私の場合別に叩かれて他に悪影響があった訳ではありませんが、ただよく考えれば、驚く程どうでも良い行動に体罰が使われていますよね。校長の話がそんなに重要か?ちんたら走っていて、そんなに悪いか?大人になっても続けているような行動ですから、行動自体は大事ではないのだけれど、 指示には従ってないということなんでしょうね。簡単に言えば、「指示に従わなければ殴るぞ」ということですよね。生徒を力でねじ伏せようとしている。こういう教育の姿勢が問題ですね。
 「指示に従う」能力も重要な行動です。私からすれば、生徒が指導に従わないのは、指示が分かりづらかったり、指導に従った時に褒めてあげてないからです。そりゃ生徒だって人間だから、先生の指示に従ってすごく良かったという経験でもなければ、指示には従いませんよ。指導に従う事の良さ、大切さを経験させていないのです。生徒が指示に従わないと、「なめられたらいかん」という恐怖感がわいたり、自分の思い通りにならないことにイライラしたりして、かっとなって体罰を使っている先生もいるかもしれません。罰を使って指示に従えるように教えようと考えるのは、褒める努力を怠ろうとする怠慢さではないかと思います。
 テレビでも最近やっと日本の体罰を容認する姿勢が疑問視されてきました。良い傾向だと思います。現在でも先生が指導の一環として、平手打ちなどを当たり前のことのように使っている事がおかしいのです。さらに言えば、見る側もそれを容認してしまっているから被害者が減らないのです。ニュースを聞く限り、この現代においてもまだ体罰を教育委員会に報告しないとか、私の父ではありませんが、あっても良い事のように捉えられているような印象です。体罰をする側の「しっかり教育したい」という意図に合わせるのではなく、体罰を受け取る側の感じ方に合わせる必要があるのです。100人に一人でも1000人に一人でも、それが原因でずっと心に傷を負う事があるなら、止めるべきですよね。これは体罰だけでなく、口でする虐待も同じだと思います。いじめと同様、学校全体で容認しないという姿勢が必要なのです。
 スポーツ関係は熱が入るので、特に体罰が容認されやすいかもしれません。スポーツの熱に流されずに、受け取る側の気持ちに立った判断が重要という例を挙げます。アメリカにあるスポーツで有名な大学の監督がいて、その監督の活躍のおかげでチームが何度も勝利に導かれ、その功績が認められて監督の銅像まで建てられたのです。地域の英雄的存在です。しかしその後、チームのコーチが生徒に性的虐待をしていたことが発覚したのです。実は監督はその話をすでに知っていて、大学側に報告していたのですが、大学側がもみ消しました。監督は大学側に判断をゆだねたまま警察には通報せず、そのままにしてしまっていたために、さらに何人もの性的虐待の犠牲者が出たのです。もちろん虐待した人ともみ消した大学側が一番悪いのです。始めにこのニュースが出た時には、スポーツファンが大勢で集まって監督の事を擁護する意見を述べていました。監督はやっていないのですから。しかし、どうでしょう?性的虐待を受けた側から考えたら、見逃した人も同罪ですよね。一生残る傷を受けたのです。犠牲者が監督の息子や孫だったら、絶対に監督は警察に連絡しているはずです。警察に通報しなかった監督って、まだ英雄ですか?被害者の親の気持ちに立って考えなければ行けないんです。その後にその大学のスポーツの勝利も取り消しとなり、監督の功績もすべて取り消しになり、銅像も取り外されました。性的虐待の場合はその被害の深刻さが明らかかもしれませんが、心的苦悩はそれぞれですから、体罰でも、セクハラでも、いじめでも、嫌がらせでも、基本は同じです。「私は平気だったから、あなたもあれぐらい平気でしょう?」という論理は当てはまらないのです。平手打ちで生徒に怪我を負わせた先生が、教育委員会にも報告されていないなどとは、被害者の人権を完全無視しているとしか考えられません。
 でも、一体日本でどうしてこんな事になったんでしょう?日本人は我慢強いからですよね。スポーツでは、何となく我慢した人ほど強くなるような気がしません?つらく、苦しい事を我慢して成功した人は、楽しんで成功した人よりも、なんとなく美しいような気がしませんか?日本では我慢自体が美しいんです。アメリカ人だったら楽に成功した方が良いんです。我慢強いことが日本の成功にもつながったのでしょうが、体罰を容認してしまったという意味ではそれが逆効果になったのかもしれません。我慢しなくても良いんです。褒められて成功し、褒められて楽しくスポーツやって強くなれば良いんです。褒めて、褒めて、教育する事を学びましょう。