2012年12月27日木曜日

自閉症の治癒、回復について。その3

 前回からの続きです。私の教室で、3人自閉症やPDD-NOSと診断された子供が、その後そうではなくなったという話までしました。
 よく言われるんですが、「本当は診断ミスで、自閉症なんか始めからなかったんじゃないの?」という疑問ですよね。私のウェブサイトにも書きましたが、こればっかりは後から確認が取れるものではありません。実は親の間でも、お父さんは「やっぱり自閉症じゃなかったんじゃないの?」と言いはなって、お母さんは「この子の何を見て来たの?明らかにおかしくなければ始めから苦労してないじゃないの。自分は療育してないからって、そんなこと言うなんて信じられない!」とキレる場合もあります。療育をしている側でも、子供と一緒に毎日付き合ってると、元々どんな症状だったかだんだん忘れてくるのが普通です。ただし、療育の記録を見て振り返ってみると、例にあげた3人の場合は、「甘やかし」では説明切れない自閉的行動や明らかな発達の遅れが記録されています。
 アメリカでは診断を急ぐ傾向にあるので、診断ミスもある程度あるでしょう。どうして急ぐかというと、もし本当は自閉症なのに診断を出さず、療育の一番効果が出やすい時期を逃してしまっては、取り返しがつかないからです。診断を出さない事から失われたものへの責任取れますか?取れないんです。逆に、自閉症でない子供に診断を出してしまった場合の方が、悪影響が低いと考えられるからです。というのも、療育を受けて悪影響がある訳ではありません。自閉症と言う過去の診断名によって学校等への受け入れが拒否されるのでは?などと危惧する方もいますが、4−5歳くらいまでに診断が取れたのであれば、将来への学校生活などへの影響もまずないでしょう。というか、わざわざ人の1−2歳の時の過去の記録を調べて差別しようなんて思うような暇な人はほとんどいないでしょう。(もうほとんどストーカーレベル。)もちろん、親への心労はかかります。親によっては、「自閉症なんてなんてことを言うんだ!」と怒ってしまう場合もあります。(親が感情的になるのは当然なので、仕方ないかもしれませんね。)それでもし診断が間違いであったとすれば、ほっとしたと同時に診断をした専門家にますます怒りを向けられる方もおられるかもしれません。ただし、ミスは出て当たり前なんです。完璧にはできないんです。診断を出すだけの、それなりの根拠があればそれで良いんです。診断を受ける側も診断が本当に疑問であれば、「間違いはある」という視点から、他の専門家に再度検査(セカンドオピニオン)してもらえば良いのです。
 診断ミスはどれくらいあるのでしょうか?ちなみに診断の専門家でない私から見ても、明らかに診断ミスではないかというケースも稀ですが見られます。こういうケースは、診断の時から私のところに紹介されてくるまでに(だいたい少なくとも一月くらいはかかりますかね)、療育などの特別な教育を受けずとも自分で発達するのですぐに分かります。私と初めて会う時から、「見て、見て」とかって色々話しかけてきたり、普通にコミュニケーションが取れたりします。こういう場合は療育によって改善したとは言えませんので、「回復」などを議論する場面では取り上げません。もちろん紹介した3人もこれにはあてはまりません。
 「回復」する、しないの議論に決着はつきませんが、療育によって大きく成長する例はあるんだと、希望を持ってもらいたいです。ただし、残念ながらそれほどの改善が見られない場合も多くあるので、改善が大きくない場合にもそれはそれで受け入れる心の準備も必要になるでしょう。

メリークリスマス

 楽しいクリスマスを過ごされましたでしょうか。私は思いがけないクリスマスプレゼントをいただきました。
 クリスマス直前、アメリカで治療教育をさせていただいた家族の方から、その体験談を書いた手紙を送っていただきました。子供が自閉症と診断された時の絶望感、私が初めて家に行った時の不安や期待の入り交じった気持ち、これまでやって来たことへの振り返り、そして現時点での問題など、親にしか書けない感情の浮き沈みを本当によくまとめられていました。障害を持つ子供の親なら当然ですが、子供のない方でも何か深い部分で共感だきるような「作品レベル」に仕上がっていたと思います。(読まれたい方はこちらのリンクをご利用ください。)元々英語である著者の手紙の印象を変えてしまわないように出来るだけ直訳にしましたが、残念ながら私の翻訳の技術がうまくなくて、日本語にしたらイマイチ気持ちが伝わらないような気もしましたが、それでも読んでみる価値があると思います。ぜひ上のリンクを使って読んでください。
 読んでいて本当に、療育という仕事に就いて来て本当に良かったなあと思いました。人の人生の深い部分で関わる事ができて、それぞれの子供の出発のお手伝いが出来て、しかも感謝されて。本当に嬉しいクリスマスプレゼントになりました。ありがたく思います。もちろん体験談では私の事を推薦してもらったのですが、読んでいるうちに「うわ、私もこの竹島先生に相談になりたい。」と思わず説得されてしまいました。同時に、「こんなに褒められるって、普通葬式の場面じゃないの?」という疑問も出てきましたが、12年以上あったアメリカでの人生が一応終結したということで、その一段落に書いていただいたプレゼントということろですかね。
  ところで、クリスマス当日に普通二輪の免許も取得できました。検定も回数を重ねるごとにますます緊張が増して、異常にゆっくり肩をはって運転していたようで、逆に倒れそうになる危ない場面もありました。しかしなんとか走りきりました。おめでとう!(自分で言うな。)これもクリスマスプレゼントになりましたね。検定後本当にうれしそうにしていたら、若い人から「何がそんなに嬉しいの?」という顔をされてしまいました。そりゃ普通すぐに合格できるよね。というかある程度合格出来そうな人しか検定受けられないんですけどね。ただ、クリスマス寒波で本当に寒くて、やっぱりバイクはまだ買っても乗れないかも?なんて思い始めた今日この頃です。カリフォルニアの暖かさに甘やかされた体には根性なんて残っていません。寒!
 

2012年12月25日火曜日

 またまた、おじいちゃんの暴走ネタでやらしてもらいます。(これだけ頻繁にネタを提供してもらってありがたいです。本人はこんなところで書かれてい るとは知りませんが、家族なのでしょうがないと思って諦めて欲しいです。)おじいちゃんはますます勢い良く暴走しています。肺炎して入院中、病院の先生に 無理に頼み込んで退院を決めたおじいちゃんですが、家族の迎えも待たずに逃げるようにタクシー退院し、その次の日の話です。朝9時に電話がありました。祖 父:「車のよう、前のところを盗られた。」こうじ:「は?何を?」
祖父:「前の車輪のところ」
こうじ:「タイヤを盗まれたの?」
祖父:「おう、タイヤはあるけどな。抜かれた。俺は分かる。15日ぐらい使ってなかったから。お前んところにみかん持っていってやろうと思って。」
こうじ「みかん?ありがとう。」
 というような会話から始まり、どうやらタイヤの空気が抜けていたようです。でも、だいたいなんで車を動かそうとしているの?無理に退院したんだから寝てなきゃいけないんじゃないの?という疑問も言えない前に、
祖父:「今来てくれ。」
こうじ:「え?」
祖父:「直してくれ。待っとる。そんじゃあ。」
こうじ:「ちょ、ちょっと待って。日本に帰ってきたばっかりで、タイヤ直すところなんて知らないよ。」
  私では助けにならないと判断した祖父は、お姉さん(祖父の娘、私の叔母に当たる)の所に電話をかけると告げ、電話を切りました。電話の後もしばらく状況が 理解できず、私はしばらくぼんやりしていました。みかん持って来るって一体どういうこと?肺炎なのに。お姉さんのところに電話してみました。お姉さん夫婦 が車でこちらに向かっているようです。もしかしたら、車で20分はかかるお姉さんを外で待っているのでは?(本当にクエスチョンマークの多い日だ。)私は 歩いても行ける距離に住んでいるので、とりあえず行ってみました。行ってみると、駐車場の出入り口近くに止まっている車の横で、予想通り自分でスペアタイ ヤに交換しようと車のトランクを全開にしています。外はまだ朝だし寒いのに。まだ退院の次の日なのに。
 あまりに理解出来ない行動に、思わ ず問いつめてしまいました。どうして外にいるの?まだ退院したばっかりなんだから家にいないと。もう小1時間ぐらい外にいるんじゃないの?代わりにお姉さ んをここで待ってるから、取りあえず家に帰って、と。まあ私も強く言ったつもりはないんですが、「困ったもんだ」という表情にはなっていたかもしれませ ん。あとでお姉さんに、「こうじにしっかり叱られた。」と悲しげな様子を見せていたようです。でも、胃がんの手術後間もなくこういった無理が原因で肺炎に なったのに、ぜんぜん懲りてない様子じゃ、こちらも言いたくもなるよ。
 その日の夕方にもう一度おじいちゃんのところに行って、次の日の外来通院に連れて行くという話をしました。しかしおじいちゃんは、頑として自分一人で行くと言って聞きません。
祖父:「もうええ。なんでも自分でしなあかん。もう、こうじ君にも言われたから、車は運転せんけどな。」
こうじ心の声:(ええ?車運転するなって話じゃないんだけど。ゆっくり休んで回復してから一人で外に出ろって話なんだけど。)
祖父:「バスもあるし、タクシーもあるし、もうそんなに迷惑かけ取ったらしょうがないから、出来るうちは一人でやる。」
こうじ心の声:(だって肺炎がまだ完全に治っていないから言っているのに。)
祖父:「自分の体は自分で一番分かるし。」
こうじ心の声:(わかってないから肺炎起こしたんだと思うけど。)
祖父:「来んでもええ。ゆっくり休んでください。」
こうじ心の声:(お前が休めよ!)
諭すように語る祖母:「せっかく連れて行くと言ってくれてるんだから、甘えときゃいいのに。」
祖父:「そんなに行きたかったらお前が行け!」
  祖母にきつくあたる様子から見ても、祖父は非常にいらいらしているようです。もしかしたら私が強く言い過ぎたので、がっくりきたのかなあと思いました。自 分ができなくなっていることがつらいんでしょうね。これ以上私が何かを言っても、あまり私のメッセージも全然伝わっていないし、議論しても無駄だなと判断 して家に帰りました。(実は次の来院の日には病院の先生から、おじいちゃんが来てないけれど大丈夫ですかと電話がありました。本当に毎日のように何かある ねえ。結局それはおじいちゃんが来院の時刻を間違えただけでした。)
 この話によく現れているのが「罰」の使い方です。行動の科学(行動分 析)の研究では「罰」の効果や副作用が明らかにされているんです。「罰」というのは、減らしたい行動の後に、何か好ましくないことが起こることによって、 将来的にその行動の頻度が減る場合を言います。確かに「罰」を使うと行動を減らす事ができるんですが、うまく使いづらいんです。たとえば私のおじいちゃん の話でも、「孫に叱られた」ということが本当にきつかったんでしょうね。私の場合別におじいちゃんに「罰」を与えようと思った訳ではないのですが、結果的にはそうなりました。た だし、おじいちゃんの「外に出る」という行動を減らしたかった(少なくとも体が回復するまでは)のですが、本人は「運転するな」というメッセージを受け 取ったようで、ちょっとずれた「運転する」という行動が減りました。ということは、減らしたい行動がピンポイントできてないですよね。しかも、次の日に迎 えに来てもらいたくないという所を考えても、私に会いたくなくなってしまっているようにも思えます(私の存在が嫌な事と一緒になってしまった)。こういう ことが、まあ副作用と言えます。
 私の二輪の運転免許の例を使ってもそうです。バイクは前ブレーキをぐっと急にかけると、車輪は止まるが車体は動いたままで道路の上を滑ってしまい、バランスが取れなくなって転んでしまうんです。ですから、40キロくらい出したところでややゆっくり目に(1 秒くらいかけて)ブレーキをかけて動きを止める練習をするんです。でも、検定で緊張している私は頭が真っ白なので、思わずずぐっと急ブレーキをかけてしま い転んでしまったんです。だいたい練習でも一度も転んだ事ないのに、全く本番弱い。一度40キロ走行で転ぶと(行動の後に痛い目に合うと)、「ブレーキを 急にぐっとかける」というと行動が減れば良いのですが、それだけではなくて運転自体やそのブレーキをかける場所が怖くなってしまったりするんです。「罰」 の使い方は難しいんです。だから、素人にはなかなかお勧めできません。
 私のおじいちゃんじゃありませんが、子供や家族の行動で、「こんな に叱ったのに、なぜまた繰り返す?」と思われることありませんか?「罰」ではなくて、「強化」というのを使わなければいけないんです。簡単に言えば、 やって欲しい行動を褒めて代わりに増やすんです。「急ブレーキ」の行動を減らすのではなく、「1秒かけてブレーキ」という行動を増やすとか、緊張しないよ うにゆっくり呼吸をする行動を増やすとか。おじいちゃんの場合は、「外に出る」という行動を減らすというよりは、30分以内の散歩を増やすとか、家の中で できることを増やすとか、発想の転換ですね。どうやったら「罰」を使わず行動を変えられるのか?それに焦点を当てましょう。
   

2012年12月19日水曜日

こだわり

 前回「要求の仕方」の投稿で話をした米寿87歳の私のおじいちゃんですが、退院早々暴走中です。おじいちゃんの泣き落としで予定外に決まった退院なので、私も迎えに行く予定の調整がつかず、お姉さん(叔母にあたる、祖父の娘)に迎えに来てもらうように連絡しました。午前中退院とういことですが、お姉さんの都合からお昼近くになるということでしたので、看護婦さんにもそう伝え、おじいちゃんにもそれまで待つように言い残して帰りました。ところが、夜おじいちゃんからお姉さんに電話があって、お昼近くまでは待てない、タクシーで帰る、迎えに来るなと言い張ったそうです。結局一人でタクシーで退院してしまいました。お姉さんからは、「色々配慮してもらったのに申し訳ないけれど、わがままなおじいちゃんなので、諦めてください。」とメールが来ていました。おじいちゃん、そんなにまでして逃げるように帰りたかったか?2、3時間の違いがどうなるワケでもないじゃないですか。どうして?理解に苦しみます。ただし、確かにここまではっきりしていると、「あっぱれ。」としか言いようがないですね。実はこれはある程度予想していたので、看護婦さんには「縛り付けてけてでも迎えを待つように」とお願いしてきたんですけれど、本当に縛り付けるわけにはいかないので、こうなったら勝手にやってもらうしかないですね。
 人のしたい事っていうのは、本当にそれぞれですね。他の人からは理解出来ない事もよくあるでしょう。ですから、他の人の理解や支援を受けるためにも、普通は色々理由とか、言い訳とか、説明を付ける訳です。まあ、うちのおじいちゃんの場合はあまり説明とかもないんですけどね。自閉症の方にはよく「こだわり」って言われていますが、「こうでなければならない」という決まりが自分の中であって、他の人から見れば大したことでなかったとしても、その決まりが本人には本当に大事なんです。それから少しでも外れてしまうとパニクったり、非常に腹を立てたりするんですよ。しかも、自閉症の人ってそれを上手く説明できないんです。どうして決まりに従う事がそんなに大切なのか。もちろん上手く説明できるようになれれば、そう教えてあげれば、周りも理解できて支援もしやすくなりますよね。説明できなかったとしても、「石の上にも3年」と言われるように、同じ事をずっと繰り返していれば、将来ギネスに載ったり、研究として認められたりすることもあるかもしれません。
 突然ですが、アメリカから日本に帰って来ると、日本人は本当に固いなあと思います。日本には「こうしなければならない」というルールというか、社会的に期待される礼儀とか常識みたいな物が多くあって、それから外れる人は、鬱陶しがられたり、嫌われたりしてしまうんです。ですから日本ではみんな同じような行動を取ってくれて、礼儀正しいので便利なんですが、ある意味臨機応変さに欠けます。これって、「こだわり」ですよね。発明家とか、研究者とか、他の人と同じ発想をしていては商売にならないので、基本的に変人じゃないですか。日本では育ちにくいのかな、なんて思います。これからは日本でも積極的にこういった違いのある人を育てていかなければ行けないと思います。違うってことは、素晴らしいことなんです。みんな勝手な事をしだすと、不便にはなります。だってみんな自分勝手なんですから、確かに協調性には欠けます。それでも良いじゃないですか。良い発明もできるかもしれません。自閉症の人や変人を責めている暇があったら、こちらこそ「こだわり」、捨ててみませんか?

2012年12月18日火曜日

要求の仕方

 今日私の今年米寿になった祖父の入院している病院に行きました。胃がん手術後にちょっと無理をしたために、肺炎になって再度入院してしまった祖父ですが、病院のお医者さんの先生と、退院について話をしました。実はお医者さんの先生は退院を勧めるどころか、まだ安心という所まで行っていないので、あと3−4日は病院に残って様子を見たいと言っていたのですが、実は本人が昨日の夜から泣いて先生にお願いしたらしいんですよね。「妻の介護がしたいから」、と泣きついたらしいんです。それを予想していた私も、本当はお医者さんの先生に安心して退院出来るまで病院に残るように言ってもらおうと思っていたんです。本人にも「人の世話を見ている場合ではない」と言っているのですが、私にも泣いてるんです。私もつられて泣いてしまって、どうしても強く言えなくて退院させてしまいました。言って見れば、おじいちゃんの「泣き」にまんまとやられた訳ですが、年齢によってそれぞれの要求の仕方ってありますね。人間本当にやりたいと工夫をして要求すれば、結構は要求は通るのかな、なんて思います。
 自閉症の人やアスペルガーの人って、本当にこの要求が下手なんです。というか、自分自身もそれに気づけない事も多いんです。例えば、腹が減ってくると、イライラしてきますよね。でも腹が減ってきたことに気づかない人って見た事ありません?特に家族とか気が許せる人にそういうイライラが見える。本人は色々やることが多くて食べてる時間を逃してしまっているとか、腹は減っているけれど食べたい物が見つからないとか、その程度の理由なんですが、家族から見るとただイライラだけが目立つので、はっきり言って本当に迷惑します。自分の血糖値ぐらい自分で管理しろっての。自閉症やアスペルガーの人ってしたい事が口でなかなか説明出来なかったり、その重要性がなかなか伝えられなかったり(周りから見れば大したことのない物が本人には重要だったりするんです)、時には欲しいということ自体に気づけなかったりするんです。でも、欲しい物が手に入らなければフラストレーションがたまるので、他に支障がでますよね。いらだったり、他に当たったり、泣いたり。親や家族はそいうった人に対して、イライラされると迷惑なので、そうならないように回避して(お腹が減ってそうな頃におやつを出すとか)生活するように逆に学んでしまい、本人の自己管理とか、ちゃんと口に出して説明して要求するとか、そういったことが学べないまま成長してしまう事も多いんです。
 要求って、人を通して自分の欲しい物を得るということですから、本当に大事なことです。これが上手い人は政治家だったり、弁護士だったりして成功する事もあるでしょう。これを家庭でどう毎日教えていくか、が自閉症やアスペルガーの治療教育の基本になります。私がコンサルをする際は、「チクチクと地味にいじめるように」と説明します。本人が欲しいなと思う事を、あえて本人が口に出して要求するまで与えなかったり、本人のこだわりを利用して、あえてこだわりに反するようなことをするんです。本当に嫌なことをしてしまうと、本人がパニックになりすぎて教えられなくなるので、それほど嫌ではないけれど、ちょっと嫌という事をするんです。例えば、本人が「この服を着た時は、必ずこの帽子」というようなこだわりがあるとすると、服を出して帽子をちょっと隠しておいたりするんです。まあ言葉が上手な子供であれば、知っていながら、「ええ、どうして?帽子なしの方が可愛いじゃん」なんて言って、どうして帽子が必要なのか、どう重大なのかを本人に冷静に説明させるんです。例えば、「この紫の服と黄色の帽子を来た時に楽しい事があって、ラッキーな組み合わせだから」とか、「この色合いの組み合わせが本当に好き」とか。気持ちを伝えるってことを教えるんです。「こんな事したいだろうな」と思ったら、絶対「ただ」では与えてはいけません。何か説明させたり、仕事をさせたりさせて良いんです。毎日の積み重ねで、要求の仕方、気持ちの伝え方はずいぶん改善出来ます。ぜひ試してください。

アスペルガー、高機能自閉症と鬱病

 自動二輪の免許を取るために自動車学校で検定を受けたのですが、今日二回目の検定に失敗しました。2回目失敗ですよ。他の人を見てても、大抵一回で成功してますよね。それも1回目はいつもしないようなところでエンスト、2回目は転倒してるんです。転倒って、これまででの練習を見ても、ありえないです。検定中めっちゃ緊張してて震えてるんです。本番弱すぎっていうか、ちょっと「面白すぎ」でしょ。どちらかと言えば無難にこなすタイプで(と思いたいだけかも)、「面白い」タイプではなかったんだけれどなあとか、もう恥ずかしいから教習所に行きたくないとか、このまま癖になって全然何度も受からないかもとか、色々真剣に考えてしまいます。教習所の先生も本当に良い方でばかりで、慰めてくれるんですけど、逆にそれも心痛いですよね。免許の場合、特に自動二輪は生活に大きく影響しないものなんで、言っちゃえばまあ取れなければ取れないで別に人生に支障はないんですが、こんなところでこんなにがっくりするもんなんですね。心が折れるっていうんですかね。
 よく考えると、高機能の自閉症の方や、アスペルガーの方って失敗経験の繰り返しだと思うんです。障害があることで、会話や人間関係で色んな失敗を起こすんです。例えば他の人が「ええ?それ失礼でしょ?」「そんなこと言ったら(やったら)叱られるでしょ」というような事を言ったり、してしまうんです。しかも本人は相手からの表情から微妙な感情を読み取る事が苦手なので、相手がずいぶん怒りを溜め込んで爆発するまでやり続けたり言い続けちゃったりするんです。自覚がないんです。ですから本人からすれば「どうして人にこんなに怒られるだろうか?」分からないんです。いつ会話の相手からそういった感情の爆発が来るのか分からないということは、私の「検定に通らない」なんて物とは比較にならないぐらい怖いことなんです。いわば人の感情爆発の「地雷」地帯をこわごわ歩いているようなものです。そういう人って普通の人でもいるでしょ?地雷を踏みまくって失礼な事や人を驚かす事ばっかり言ってるような人って。そうなると、逆に人と話すこと自体が怖くなってしまうんです。人からは「お前全然人の事気にしてないなあ」なんて言われるんですけれど、本人からすればすごく気にしているんです。ただ、その気にしている焦点がずれてしまっているだけなんです。
 こういった人間関係の失敗をあまり続けると、「私って・俺って、やっぱりダメなやつなんだ」と思ってしまうでしょ?実はアスペルガーや高機能の自閉症の人は鬱病が併発することが多いんです。叱られ続けて、怒られ続けて成長することが多いですから。「障害をそのまま受け入れる」って聞きますが、周りからの理解が本当に大切だと思います。あくまで私の意見ですが、「可哀想だ 」という慰めとか、見下した見方ではなくて、「お前おもろいなあ」って、笑ってやって欲しいんです。私だって検定2回落ちたくらいで落ち込んで、慰められても心痛いぐらいですから、少なくとも笑ってくれなければやってられませんよ。そしたら、少なくとも他の人を幸せにさせたじゃないですか。意義ありだと思いませんか?人って障害あるないに関わらず、他の人に貢献出来ることがしたいと思います。障害を隠してしまう両親もいるでしょう。でもそれって、逆に他の人からの理解が得られずに、人間関係で難しいことがあった時に本人が苦労すると思います。「こんな失礼な事言ってしまう人なんです。本人気づいてないんです。面白いでしょ?悪気ないんです。すみません。」って本人の弱点を見せる事で他の人を安心させて、「ああ、そういう人なんだ」って分かってもらって、「それはそれでありかも」と思われるような人間関係が築ければ、私は良いような気がします。

2012年12月17日月曜日

NHKのハートネットTVを見て

 今日(2012年12月17日夜8時)にNHKのEテレ?教育?の、ハートネットTVという番組で、自閉症と知的障害のある青年の”成長記”というのを見ました。心温まるエピソードでした。青年(20歳前だったかな?)は障害のある方にも優しい職場で仕事を持っており、毎日自分で起きてバスで通い、家族も障害を受け入れているということだったと思います。この青年は言葉も結構話せ、叱られた時の気持ちを書いた詩が紹介されていました。昔は自分の気持ちが伝えられなくて他の子供を叩いてしまったり、といったエピソードも紹介されていました。
 仕事が持てる事(障害にも優しい職場環境が見つかった事)、気持ちが伝えられる事、家族が障害をそのまま受け入れられている事、こういった事はなかなか難しいと思います。残念ながら、この1つ1つどれも難しいんです。自閉症って、診断の一番最初の条件にコミュニケーションが取りづらいってあるじゃないですか。このコミュニケーションの障害が本当に生活を難しくしてしまうことが多いんです。言いたい事が伝えられない、言葉にならないということが多いので、他人から見ればおかしな行動をとっているように見え、さらにその理由も分からないということなんです。これって、仕事現場では結構きついですよね。毎日生活している家族でも分からない事が多いんです。「障害が受け入れられない」ということは、説明すれば「障害が原因で、本人の行動パターンの理解ができず、周りの人にストレスがたまってしまう。ストレスが原因で家族が本人を怒ったり叱ったりということにつながる。さらに、本人はなぜ怒られているのかわからずに、不安を高める」ということなんです。
 私が比較的高機能(言葉が結構話せる)の10代の子供に療育をする時は、意思をどうやって伝えるか、どう言えば他の人に状況が説明できるのか、他の人は何がわかって、何を説明しなければ分かってくれないのか、ということを教えていきます。コミュニケーションって、本当に奥が深く、しかも残念ながらそういったことが書かれた教科書も本当に少ないんです。ですから、療育の専門家でもこの領域に腕のある人は、少ないんです。はっきり言って、非常に難しいんです。こういったことに対してをどんどん研究が進んで欲しいんです。そして、それが出来る腕利きの臨床家、療育家が必要になるんです。(自閉症を持つ親の方、家族の方、本当に声を大にして、一般社会に研究、療育の必要性を語りかけましょう。)

自閉症の治癒、回復について。その2

 前回の続きです。
 私のアメリカでの療育経験から言っても、そういう「回復」と呼ばれるケースは少なからずあります。これをまあ「成功例」と呼びましょうか。確かに3歳前に始める場合と、そうでない場合とでは、早く始めた方が(2歳前後くらいから始めた方が)圧倒的に成功例が出やすい印象を受けます。あくまで印象ですが。私の最近の経験では、多い時には10人中3人とか4人の成功例がある時もあれば、少ない時には一人ぐらいの時や、 全然いない時もあったでしょうかね。
 成功例の子供3人の話をします。3人とも同時期に2歳前から療育を始めました。2人はPDD-NOS、一人は自閉症の診断があったでしょうか。(診断の専門家でないので、診断名はあまり覚えていません、すみません。)始めた頃は、泣いて泣いて、療育する方もうんざりしました。人に触られただけで叫ぶとか、毎週同じ先生に会うだけなのに何ヶ月間も毎回泣くとか、明らかに普通の子供とは違うレベルです。もちろんどの子も全然言葉をしゃべれませんでした。何か欲しければ、泣いたり自分で掴もうとしますが、その意思を人に伝える事はできません。言葉が出るようになっても、3人ともきちんと自分の名前が発音できるようになるまで、一年近くかかりました。他の子供には全然興味を示しませんでした。この3人、療育をぐんぐん吸収して成長して卒業(3歳の誕生日)までには、発達検査の結果で健常児と比べてあまり大きな遅れがなくなりました。(その中の一人の親から体験談を書いていただきました。読まれたい方はこちらをクリック。)
 卒業して一年ぐらいした頃に、他の子供の見本としてその3人を招きました。卒業後特殊教育や専門家による療育などはあまり受けていないのに、卒業した時よりも明らかに言葉が上達していました。お昼ご飯中冗談を言い合って笑ってるんです。まあ4歳前後なので冗談と言っても「うんち」とか「おなら」とかそういったレベルです。話し始める時に、"Actually(本当は)"から文章を始めたり、おませな言葉使いもします。どの子も以前自閉症かPDD-NOSと診断されていたんですよ。はっきり言って、驚きですよね。自閉症には見えませんよね。そうかと思えば、教室に行ってから遊び場に行くのは良いが、教室に行かずに直接遊び場に行こうとするとなぜか泣いてしまったり(こだわり)、全員で何かをしようとすると必ず何か他の事をやろうとしたり(協調性がない、手間がかかる)、と言うような行動が見られたりもしました。私が日本に帰国したということで、"Where did Koji go?I miss Koji.(浩司はどこへ行ったの?さびしいね)"と言った子もいました。人のことを恋しがるというのは自閉症では普通聞かないですよね。
 これって、本当にどういうことなんでしょうか?本当に「回復」の例なんでしょうか?その3に続きます。 

自閉症の治癒、回復について。その1

 皆さんの関心のありそうな話題からしますね。これは、私のホームページ(上のリンク自閉症相談室)でも触れた話題ですが、もう少し掘り下げたいと思います。
 自閉症って、早期(1−3歳程度までに)に療育を始める事によって、「治癒」とか「回復」とかするんでしょうか?まず自閉症って、一生の障害だということが言われます。教科書的にはそうですよね。でも、ABAを使った療育(ABA、療育について詳しくは自閉症相談室のページをご覧下さい)を行うことで、治るん人もいるんじゃないですか?自叙伝である「わが子よ、声を聞かせて」(Catherine Marice著、山村宜子翻訳)なども、その例じゃないの?80年代にあった、ABAで最も有名なあのUCLAのロバース博士の論文では、19人のうち半分に近い子供が健常児と普通学級に通って、他の子供と見分けがつかないという状態になったというじゃないですか。これって、矛盾していません?治る(なおる)の?治らないの?そう思いませんか?
 療育の本場であるアメリカの療育の現場でも「治癒」とか「治る」という言葉(英語で言うと「cure」にあたる)はほとんど使われていません。これは、この言葉を使うと「病気や傷などが完全に治る」という意味になり、障害の原因さえわかっていないため原因が取り除けない自閉症に使う事自体が疑問視されるからだと思います。上の文章でロバース博士の論文の所では、「健常児と普通学級に通って、他の子供と見分けがつかない」と回りくどい表現をしていますが、自閉的な行動傾向が完全になくなったということではありません。自分の好きな話題だけを繰り返してしまったり、小さなことでパニックになりやすかったり、といった症状が続く場合もあります。なんとなく「変わった人」という印象を与えるかもしれません。ですから「普通になった」とか、「自閉症がなくなった」とは言えないのです。だから、「治る」、「直る」、「治癒する」とは言えないんです。
 それに対して、「回復(recovery)」という言葉は使われる療育の専門家の方もいます。例えば、カリフォルニアでABAの学会に出た時に、積極的に「回復(recovery)」という言葉を使おうと、学会で発表等している療育の専門家もいました。ここで言う「回復」とは、「自閉症的な問題が小さくなって、普通学級に特別な支援なし、もしくは小さな支援のみ必要で、専門家でない人から見ても人間問題で大きく目立つこともなく、知的な遅れや言語の遅れもほとんど見られない」という意味です。まあ、平たく言えば、「変な人ながらある程度の社会や学校への適応をできる」とでも言いましょうか。その専門家の発表では、それぞれ療育の会社で多かれ少なかれ必ずそういうケースはあるはずで、それが何パーセントか、療育の技術向上でどれだけその割合が上げられるかということを、もっと公開して議論していこうと言っていました。
 私の「回復」という言葉にまつわる療育経験について、その2に続きます。

2012年12月16日日曜日

 始めてのブログになります。コンピューターからの情報発信が意外に簡単に出来るもんなんですね。いや、作るのにかなり手間取ったという話もありますが。
  これから、自閉症に関連する様々なこと、例えば自閉症の療育について、家族間の不安や心痛の問題について、福祉や公共のサービスについて、学校について等、色々な話をさせていただくつもりです。
 書いてみるとすごいですね。あまりに重いテーマのようにも感じられます。でも、問題のない人なんて、いないじゃないですか。逆に言えば自閉症というきっかけで、色々な解決策や知恵の使い方など、悩みが他の人と共有できるようになるかも知れません。特にこういったブログなんかを使えば、本当に遠くの方とも色々会話出来ますよね。世の中狭くなりました。「自閉症だけど人生楽しんじゃうよ」という意気込みで、なるべく明るくなるように心がけますので、よろしくお願いします。
 浩司